貧乏の鉄鎖を切る

「今月の支払いをどうしようか、どうやり繰りしたらよいものか」
「こんな収入ではとてもやっていけない。あと何を切り詰めていこうか」

私を含め大部分の庶民の、苦しいツブヤキだと思う。ある人が冗談交じりで言っていたが、「ウチはもうなべ底です。これ以上続いたら、なべ底を突き破ってしまうほどです」という言葉が冗談では済まされないほど、苦境に立たされている人がいるかもしれない。

学会には多くの経済革命をし、貧乏の鉄鎖を見事に断ち切った体験が数多くある。草創のころは、日々の食べ物にも事欠く会員も多く、戸田第2代会長はユーモアを込めて、我々の姿は一見すると「貧乏菩薩」「病気菩薩」にしか見えないが、と前置きしつつ信心指導を進められたそうである。そこで僭越ではあるが、私なりに「貧乏の転換」について論じてみたいと思う。

第1に、貧乏であるのは過去世で、相当に泥棒をして人の物を奪ったからであり、だから現在、貴方は貧乏をして苦しんでいる。こう説くのが実は釈迦仏法であると仰っている。この釈迦の「常【つね】の因果」に対して、大聖人は「大いなる因果」「妙法の因果」を明かしているのである。

つまり、過去世で法華経の行者を腐してさんざん悪口を言ってきた報いとして、人に軽んじられたり貧乏や病気で苦しんだりしている。だから、法華経を讃歎し弘めていけば、過去世からの悪業は消え、大福徳の人生を築いていける。貧乏も病気も必ず宿命転換できる、というのが大聖人の仏法なのである。ここでさらに考察を進めてみる。病気はしっかり信心すれば治るのは早いが、貧乏を転換するには時間がかかる、と言われるのはなぜであろうか、という疑問である。

これは私なりの思索では、病気は現に苦しんでいるので治りが早い。信心の功徳力によって、苦痛を取り除いてくれるのである。では、同じ苦しみであるのに、貧乏の苦は、なぜ速く取り除かれないのだろうか。それは、病気が治って健康になったからといって、信心を失い堕落に向かうことは少ない。反対に健康に素直に感謝して、いよいよの決意で信心に取り組めるであろう。

ところが、貧乏はそうはいかない。貧乏の解決は、即、お金や財に満ち足りてくることであり、それ自体が物欲などの欲望を解放してしまう。信心を失わせる堕落のパワーが大きいからである。「清貧」「金とゴミは汚い所に溜まる」という言葉にあるように、貧乏であるがゆえに人間は清く大志を持って生きることができる。逆に必要以上の金銭を得たことによって堕落に向かったり、志を失ったりするのが、人間の愚かさなのだろう。

したがって、「お金の使い方」を知り、それが断固として実行できる自分になれることが、真に豊かな自身をつくり、経済革命を成し遂げる秘訣なのだ。最も価値的なお金の使い方とは、人生万般のことについて、その根本を「広宣流布のため」の1点に置くこと、そこから発想を出発することだと思う。そういう自分の一念を確立できてこそ、望んだ分だけいくらでも、金銭や財が入ってくるようになり、自己の生活の充実も叶っていくのである。

繰り返しになるが、自己の「小我」にもとづく欲の充足を目的とした金品は、入って来ない方が良い場合が多い。真実の楽しみとは、金品の消費にあるのではない。信心にこそ真実の歓喜があるからである。これが生命で解って、振る舞いとして実行し切っていける自分になれた時、どんなにがんじがらめに縛りつけられたように見える、貧乏の鉄鎖であっても、必ず断ち切れるのである。

 

貧乏の鉄鎖を切る(2)

貧乏の鉄鎖を切る(3)

魔との戦い ~御書三編

貧乏の鉄鎖を切る(4)

貧乏の鉄鎖を切る(5)

貧乏の鉄鎖を切る(6)

貧乏の鉄鎖を切る(7)

貧乏の鉄鎖を切る(8)

貧乏の鉄鎖を切る(9)

(平30.2.17 修正しました)

 

 

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幸福の因

あなたは人生における「幸福の原因」とは何だと思いますか?
幸福という大樹が育つためには、その始まりである種子は、どういうものだと考えますか?

「努力」
「信念」
「愛情」
「才能」
「お金」
「家族」
等々、その答えは人によってまちまちだと思います。
学会員として40年近い私の信心を通じて(10年ほどあった休眠期間は除く)、強く思うのは、「幸福の因」とは学会活動自体であり御本尊を持っていることであり、日々、唱題に励み地湧の使命に生きる歓喜だと感じています。

さらに一重深く掘り下げれば、この信心で人を救うこと(折伏)であり、さらに言えば法華経ゆえに悪口を言われ、迫害に遭うことが、最大の「幸福の因」となります。
信仰ゆえの無用な争いや誤解などが無いよう賢明に身を処すべきであり、学会員として社会で揺るぎなき信頼を勝ち得ることは、広布を進めるためにも賢明に幸福へと自他をリードしていくためにも非常に重要なことです。

そのうえで、「世間のとが一分も無し」とあるごとく、自身に社会的過失が1つも無いのに、学会員であるという理由だけで、さまざまな迫害に遭う場合もあります。
実は信心ゆえに法華経ゆえに、悪口や迫害を受けることは、生命次元から言えばもの凄いことなのです。
「六難九易」でも説かれるように、それは難事中の難事なのです。

法華経を誹謗することは最も深い罪業となりますが、反対にあらゆる誹謗を打ち破って法華経を讃歎し弘めることは、最高の幸福境涯を築く因となるのです。
一切の迫害に耐え妙法を弘めることの難しさを、御書では「鉾【ほこ】に当たるの難事なり」と仰せです。

昔の合戦で大軍と大軍がぶつかり合う最前線で、槍【やり】ぶすまに向かって自らすすんで突進していくような、勇気と捨て身の命懸けの覚悟が必要なのです。
仏の異名の1つは「最高の勇気の人」です。
そしてこの勇気が試され、勇気を引き出す行動の連続が学会活動である、とも言えると思います。

最善を尽くしてなお、相手の無知のゆえに、悪しざまに言われることは、生命の次元で言えば最高の名誉であり、莫大な財宝をもはるかに上回る仏法の宝蔵(生命の宝蔵)を開き、自在に使いこなしていける自分になれるのです。
このことを大聖人は次のように仰せです。

当世、日本国に第一に富める者は日蓮なるべし
命は法華経にたてまつり名をば後代に留【とどむ】べし
(御書p.223)

流罪の身でありながら「第一に富める者」との御本仏の大宣言に、あらゆる魔性と人類の不幸の闇を打ち破り、末法万年にわたり照らしゆく希望の太陽が昇ったのです。
池田先生は正しい信仰ゆえに悪口を言われることは、「生命の勲章」のようなものであるとの指導をされたこともあります。

1つの小さな小さな種にも、やがて大樹と育つすべての因が具わっています。
葉も幹も根も花も果実も、すべて欠けることなく、1粒の種に具わっています。
仏法の真髄が教える「幸福の因」は、万人に開かれたものであり、SGIは今や全世界192カ国・地域まで広がっています。

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