唱題 約10カ月で168万遍達成

毎日せっせと記事を書けているが実際は、生活面で多少負荷が増している。
商工会議所主催の「自動制御・シーケンス技術講座」というのを、2日にわたって6時間半×2日(昼休み含まない)を受講したり、座談会など連日の会合に参加したためだ。

ところで、今日、今までの唱題を集計してみた。
写真の書類は、唱題の集計作業の様子である。

集計結果は、今年は約10か月経ったが168万遍あがった。
通算としては3年と約10カ月で768万遍を完遂した。

数や時間も確かに大事である。
しかし題目は、単なる形式ではない。
単なる数さえあげればいい、時間さえ長ければいいというものではない。

どこまでも一念のこもった唱題、具体的には、今この時の学会の戦いにしっかり呼吸を合わせ、友人や会員のことを1人1人顔を思い浮かべて祈るのだ。
獅子奮迅の思いと行動で、しっかりと広宣流布の戦力にまず自分がなっていくのだ。
そういう思いで戦いを改めて開始しました。

題目は形式ではない、ということをもう少し掘り下げてみよう。
あくまで「形式」だけを取ってみれば、学会と極悪日顕宗とは、題目も御本尊もほぼ同じである。
厳密に言えばいろいろと論点はあるが、ここでは触れない。

では学会と宗門とは何が違うのか。
いろいろと挙げられると思うが、ここでは何点かに絞る。
1つは広宣流布のための題目であり御本尊であり、その行動が学会には漲っている。
広布と言っても、ではいったい何を弘めるのかと言えば、平和・教育・文化・人権の運動を通して、立正安国の思想を基調にこの世から悲惨を無くし、身近な1人から全人類までを幸福にしゆく戦いである。

宗門にはこの正しい理想も目的も無い、真の指導者(師)もいない。
信者は供養集めの対象でしかなく、本尊も供養集めの道具に利用しているだけである。
広布破壊に盲進する極悪集団に成り下がってしまったのである。

日顕宗・宗門は、ネズミを狙う猫が細目でみてそっと歩くが如く、卑しい魂胆をひた隠しにして、信者から供養をむしり取ることばかりに血道を上げているのである。
勤行も供養収奪のための商売道具の1つに過ぎないのだ。

その正体は「懶惰懈怠  らんだけたい」であり、「遊戯雑談  ゆげぞうだん」そのものである。
広布の赤誠のカケラも無い、堕落し怠け切った姿であり、「遊戯雑談」に明かし暮らす「法師の皮を着た畜生」である。

悪は正義に似ていればいるほど、その罪は重く、極悪となる。

偽札が本物に似ていればいるほど、罪が重いのと同じである。
まさに「広布破壊の極悪」の存在に堕したのである。

それに対して学会員は俗でありながら、ある意味、僧以上の真剣さで、この厳しい社会の中で日々、生活闘争を為しつつ、くたくたに疲れた身体に鞭打って、悩める友のために、広布のためにと奔走(ほんそう)し、来る日も来る日も勤行・唱題を勇んで行じている。

こうして見てくると、学会員であることがどれほど凄いことか。
どれほど大きな福運が具わっているか。
学会のこの上ない正しい題目に合致するよう、怠りなく、今日よりは11・18そして来年の総本部完成を目指し、着実に前進していきます。
また長文になりスミマセン。

(一部加筆・修正しました 12年10月23日)

 

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御書に学ぶ 4編

また少し長いですが、おつきあいください。

又減劫の時は小の三災をこる、ゆはゆる飢渇・疫病・合戦なり、
飢渇(けかち)は大貪(だいとん)よりをこ(起)り、
やくびやう(疫病)はぐち(愚痴)よりをこ(起)り、
合戦は瞋恚(しんに)よりをこ(起)る
(御書p.1064)

「三災七難」のうちの三災に大の三災と小の三災があり、小の三災=3つのわざわい飢餓・疫病・戦乱は、それぞれ三毒の貪欲・愚癡・瞋りの命を原因として起こるとご教示されています。

特に2番目の「疫病」とは、伝染病などの流行病いであり、現代でいえばうつ病などのメンタルの病も含まれると考えられます。
その病いの原因が「愚痴」であると断じられているのが、特筆すべきことだと思います。


されば妙法の大良薬を服するは貪瞋癡(とん・じん・ち)の三毒の煩悩の病患を除くなり、

法華の行者、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、
謗法の供養を受けざるは貪欲の病を除くなり、
法華の行者は罵詈(めり)せらるれども忍辱を行ずるは瞋恚(しんに)の病を除くなり、
法華経の行者は是人於仏道決定無有疑(=是の人、仏道に於いて決定して疑い有ること無けん)と成仏を知るは愚癡の煩悩を治するなり、
(御書p.755)

人間のどうしようもないこれら三毒の命も、法華経の行者が題目を唱える時、

謗法の布施を受けないことにより、貪欲の病を治し、
信心ゆえに悪口を言われても、忍辱を行じることにより、瞋恚(しんに=いかり)の病を治し、
決定した、疑い無き信心で、成仏を確信することは、愚痴の病を治す、

と仰せです。
なんと有り難い御本尊でありましょうか。


されば鹿(しか)は味ある故に人に殺され、

亀は油ある故に命を害せらる、
女人はみめ形よければ嫉む者多し、
国を治る者は他国の恐れあり、財有る者は命危し、
法華経を持つ者は必ず成仏し候、
故に第六天の魔王と申す三界の主(ぬし)此の経を持つ人をば強(あながち)に嫉み候なり、

此の魔王疫病の神の目にも見えずして人に付き候やうに、
古酒に人の酔い候如く国主・父母・妻子に付きて法華経の行者を嫉むべしと見えて候
(御書p.925)

様々な譬えを挙げられて、第六天の魔王やその手下たちが、法華経を持つ者を強く嫉み、退転させようと狙って来るのは、法華経を持つ者は必ず成仏してしまうからです。
鹿の旨い肉のように、貴重な亀の油のように、美貌の女人のように、魔王たちが持っていない最高の宝が法華経に秘められているゆえに、何とかそこから引きずりおろそうとするのです。

このことは逆に言えば、最高の宝、つまり絶対に幸福になれる力が、御本尊に具わることの証なのです。
ですから魔の働きも悠々と見下ろしていくぐらいの大確信を持つべきなのです。

構(かま)へて構(かま)へて所領を惜み妻子を顧(かえ)りみ又人を憑(たの)みてあやぶむ事無かれ、
但偏(ただ・ひとえ)に思い切るべし、

今年の世間を鏡とせよ若干(そこばく)の人の死ぬるに、
今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、
此れこそ宇治川を渡せし所よ是こそ勢多を渡せし所よ、
名を揚(あぐ)るか名をくだすかなり、

人身は受け難く法華経は信じ難しとは是なり、
釈迦多宝十方の仏来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし、
(御書p.1451)

妻子や経済的基盤が損なわれないかと危ぶんだり、人を頼って信心を弱めることがあってはならないと強くご指南されています。
「ただ、ひとえに思い切りなさい」
とまで厳しく打ちこまれます。

災害や様々な要因で多くの人が亡くなったにも関わらず、今まで生きてきたのはこのこと(=法論。今この時の広布の戦い。法戦)に会うためであったのだ。
この時、この戦いこそ、勝負を決する大事な大事な時である。

昔、京に攻め上る軍勢が、戦いに勝つか負けるかを決する、要衝(ようしょう)の地が宇治川や勢多であった。
勝って名を上げられるかどうかの、戦いの正念場である、との仰せです。

人間に生まれることは困難であり、法華経に巡り会うのはそれよりはるかに難しいことです。
十方の仏が集まってわが身に入り替わり、我を助け給えと決めていきなさい、強く祈っていきなさい、とご教示されています。

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