パソコン8台目を購入

今年になって新年早々に、ノートパソコンを新調しました。学生時代にSHARP MZ-80C というパソコンを持って以来、約35年間で計8台目となりました。新しいPCは、DELL社製で法人窓口のみから購入できる  Vostro 3568 プレミアモデル というマシンです。写真は1枚目が新PCの全体を、2枚目は CPU のラベルを拡大表示したものです。

 

 

「7th Gen」とあるのは「7番目のGeneration」のことで「第7世代」を意味します。この CORE i5 の第7世代という CPU は、人間で言えば頭脳に相当するチップです。世代を経るごとに改良が施され CPU 性能がアップしています。これまで使っていたノートが CORE i5 第2世代でしたので、ベンチマークテストで処理速度が約200%に高速化されています。消費電力も大きく改善されていますので、熱の発生が抑えらるため冷却ファンはほとんど回らず、動作音が非常に静かです。

このマシンに DVDマルチドライブをオプションで付け、メモリも自分で 4GB → 8GB に増設しましたので、かなり快適な環境になりました。本ブログ等への書き込みはもちろん、仕事にも多用していますので、これを好機として気持ちも新たに前進していきたいと思います。

 

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夢は実現する!

夢はあたかも闇夜の北極星のようなもの。夢はカーナビゲーションに目的地をセットするようなもの、と私は考えている。

最近の若者に「あなたの夢は何ですか?」と聞くと、とても夢とは思えない答えが返ってくる。時には、夢そのものが無い、という若者さえ少なくない。

先行きの不透明さが増す現代は、夢も希望も持ちにくい時代なのだろうか。それとも、現代の人々には、現実が余りにも見え過ぎてしまっているのだろうか。

大学の研究者に聞くと、先が見える頭がよい人は研究には向かないそうである。
「こんなことをやったって無駄だ」
「こんな可能性の低いことを研究して、何十年を棒に振るのはご免だ」
と諦めが先に立ち、研究そのものがスタートできないからだ。

その意味では、97%ダメでも残りの3%にかけてみようと、何十年も持続できるには、先が見えない程度には頭の悪さが必要だというのだ。

企業において商売上の儲かる木も、最初の種の内は、上の例のようにわずかの可能性しか無いかもしれない。それでもそこに賭けてみてまず始める勇気、いざ始めた後も苦しくてもめげそうでも、成果をつかみ取るまで続ける根性が必要だ。ある意味、馬鹿になってやってみようとしなければできない。とにかく種を植えて肥料や水をやって育てなければ、ただ計算やシミュレーションだけをどれだけ繰り返しても、収穫は永久に得られない。

種を植える前のステップが夢見ることであるなら、この夢を見るということがどれほど大事なことか。例えば、今、あなたがこの文章を読んでいるパソコンについて考えて欲しい。パソコンというものがこの世に初めて誕生した時に、それはいつどこに出来たかご存知だろうか。

それは、「これこれこういうものが、あったらいいなぁ」と夢見た人の頭の中に、世界最初のパソコンが出来上がったのだ。あとはそれを現実化し商品にまでしていくプロセスが続くだけである。

大昔の帆船が、真っ暗闇の中でも北極星を目指して進んだように、そして目的地に無事到着できたように、夢は目的地に連れていってくれる。現代のカーナビゲーションが、目的地をセットするだけで、音声と映像により至れり尽くせりで案内してくれるように、どんな長距離であってもどんなに複雑な道順であっても、迷うことなく到着することができる。

「思考は現実化する」という有名な言葉があるが、「夢もまた現実化する」のである。そして忍耐強く一歩一歩あゆみを進めていけば、千里の道も行けるように、世のため人のため自分のためとなる夢はたいていの夢が叶えることができるのである。

レオ
(私が4年半前に書いた文章です)

 

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心の壁を取り払え!

既成概念    -きせいがいねん
固定観念    -こていかんねん
先入観      -せんにゅうかん

といった言葉がある。それぞれの意味はここでは省略するが、この3つとも、往々にして我々の行動を縛ることがある。特に環境の変化が大きい場合に、この3つにとらわれ過ぎると、適切な行動が取れず失敗を繰り返してしまいます。

既成概念とは常識です。常識的な発想の範囲から抜け出せなければ、変化に対応もできませんし、独創的なものを生み出すこともできません。

固定観念とは、知らず知らずの内に沁みついた経験です。物事を為すに当たって、勝手に決め付けている考え方、とらわれているクセです。

先入観とは、人や物事を見るに当たって、無意識にフィルターを通してみているのです。フィルターによって一定のバイアスがかかり、歪んだ映像を見ていることになります。先入観は、先に得た少ない情報にとらわれ、対象をありのままに正確に認知できていない状態とも言えます。

環境が大きく変化した場合、または自ら大きな変革を起こそうとする場合に、これら3つが障害物となって前進を妨げてしまうのです。町おこし において大きく力を発揮する存在は、

若者
ばか者
よそ者

と言われるそうです。なぜなら、こういう人たちは、上に挙げた3つの欠点が無いからです。

「若者」は、頼るべき経験がそもそもありません。「ばか者」は、時として足かせとなる知識も知恵も持っていません。「よそ者」は、その土地について無知で、余計なしがらみがありません。

つまりこの3者は、既成概念、固定観念、先入観に縛られることなく、自由自在に活躍しやすい素地があるのです。これは何も町の復興だけでなく、個人の行動にも言えることだと思います。

いかに私たちが、1つの行動を起こすに当たって、胸中に作ったそれら壁の前で、逡巡(しゅんじゅん)し諦めていることか。特に悲観的な傾向の人や、自己肯定感の低い人は、これら3つの壁も分厚く高い壁となって立ちはだかります。

諦めの習慣が身につくと、簡単にできることさえ不可能にしてしまいます。サーカス団に買われた子どもの象を思い浮かべてください。小象は杭(くい)につながれますが、そこから逃げようと何千回、何万回も杭を引き抜こうとします。しかし杭を抜くには非力なため抜けません。鎖が肉に食い込み、血が噴出すまで、杭を抜く必死の努力を繰り返します。

こうして成長した象は、小さな杭によってつなぎ止められています。抜こうと思えば簡単に抜ける大力があるにも関わらずです。

このサーカス象の例が、既成概念・固定観念・先入観というものに、我々がいかに縛られているかということに気付かせてくれます。では、これらの壁を打ち壊すものは何でしょうか。それは強い意志に基づいた楽観主義です。究極のポジティブ志向により、1つ1つの壁を崩し撤去する作業が必要です。それは希望を創り出す一歩一歩となるのです。

レオ
(5年前に私が書いた文章です)

 

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燃え尽き症候群の効用

 「燃えたよ……まっ白に……燃えつきた……まっ白な灰に……」

アニメ・あしたのジョーのラストの言葉だ。一般には「燃え尽き症候群」とは異常な疲労感と、目的の喪失を指すと捉えられがちである。しかし燃え尽きには何の効用もないのであろうか。それを少し考察してみたい。

燃え尽きるまでやり切ったということは、1つのことに長期間、徹底して全力で打ち込んだという証であると言えないだろうか。できることを全てやり切り、一点の悔いもない心境とも言えよう。

さらに燃え尽きとは、その仕事や事業、学業などの、ある意味で「卒業の時」とも言える。もうそのことに拘泥【こうでい】したり翻弄【ほんろう】されることもない。一定の距離を置いた自由な立ち位置から見つめ直すこともできる。必要に応じて新しいことのために、経験を使いこなしていくこともできる。

燃え尽きたというサインの最後の利点は、行動の再出発を可能とすることである。燃え尽きたということに悲しみ、落胆してはいけない。燃え尽きは今まで打ち込んで来た仕事の修了という1つの節目である。と同時に、新たな物事を始める再スタートの時なのである。

燃え尽きたと言っていつまでも落胆せずに頭を上げよう。  燃え尽きはゴールでは決してないのだ。あなたの目の前には、わくわくするような新たな冒険への扉が開いたのだ。ひとまず自分に、とびっきりのご褒美をあげよう。充分な心身への休養を取り、英気を養ったならば、また未知の航路に出発しよう。

レオ
(私が3年前に書いた文章です)

 
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貧乏の鉄鎖を切る(8)

 戸田城聖先生 質問会集から抜粋
~経済的問題とその答えだけを抜粋しました(つづき)

 

経済的悩みが大きくなった

[質問] 経済的な悩みで信心して二年になりますが、だんだんその悩みが大きくなっている状態です。

[答] 四十歳ぐらいで、商売を熱心にやっていればだいじょうぶです。金はもうかるようになります。しかし、あまり若いうちから、金はできないほうがいいでしょう。五十ぐらいからでどうですか。このなかに、経済的に悩んでいる人もあろうと思うから、私の体験を一応話しておきましょう。

私はヒバリのような運勢といわれているのです。それは、貧乏すると、どこへもぐったかわからないほど貧乏をしてしまう。それからひとたび景気がよくなると、どこまであがっていくかわからないのです。ですから友人は、私のことをヒバリというのです。
四十四のとき、牢へはいる前ですが、昭和十八年です、そのとき六百万円もっていました。どうやってできたか自分におぼえがないのです。それが牢から帰ってきたら、借金が二百何十万残っているのです。

それを返し、そうとう財産をつくってから謗法をしたのです。私が天台流の講義をやったのです。それは、私が会長にならなければならない宿命なのです。だが、会長になるのがいやでたまらなかったのです。会長にならないというと、身は日蓮大聖人の弟子でありながら、講義は天台流の講義をしたのでは、心は天台の弟子です。それは大謗法です。自分の謗法というのは気がつかないものです。それでえらい損をしました。

それで私は、昭和二十六年、会長になりました。それから、天台流の講義は絶対にいたしません。おかげで、どうやら金では今日は困りません。だから戸田は、創価学会をやっているから、私たちの寄付でのんきにやっているから、そんなことがいえるのだろうと疑ってはなりません。それはあなた方のほうから一銭ももらってはいません。ぼくに金をくれたという人がいたら出てごらんなさい。それは、あそこへ普請【ふしん】している大講堂の御供養のお金はもらっています。だが私がもらっているのではありません。あの建物がもらったのです。

私がどうにかなったのは、五十二からです。四十四のとき、六百万ももったとき、たいてい五十から財産ができると人は話しているが、私は頭がいいから、人より十年早いのだと、いばっていたのです。ところが、パッとなくなってしまったのです。五十を越してからどうにかできてきました。だから、そうあわてる必要はありません。

それから、いま、あなたのことばをきいていると、ひょっとすると、利息を払っている金を借りているのではないかと思うのですが、利息を払うということはこわいことです。
「だいぶ利息をとったから、元金を利息でとったから、おまえの借金はまけてやる」という人は、どこにもいないのです。だから、もしあなたが借金をして、利息を払っているのなら、そこを打ち勝たなければならないのです。これがいちばんの根本の問題です。このような場合、利息を払う人があるものですか。だから利息など払わないようにと考えるのです。これは大事なことです。

しかし、銀行の利息くらいは、払ってもよい。二銭か、二銭一厘の利息を払って、商売をやれないようなものなら、商売をやらないほうがいいです。ところが、まぬけな人は、日歩十銭だとか十五銭だとかいう利息を払うのです。そんなものを払って、商売などできるものですか。日歩十五銭とすると、年にして六割、月にすると五分ぐらいです。そんな金を払って商売などやれるわけがありません。

ですから、いまの人が二年半も信心して、だんだん重苦しくなってきたというのは、手形をだして、たくさん利息を払っているのでしょう。それをやめるのです。二年も三年も信心していて、金ができないというのは、たいてい高利を払っているのです。このなかにも、そういう人がいるのではないですか。断じて高利など払ってはなりません。それをどうしたら払わないですむかということを考えるのです。そうして、そこからのがれれば、いやでもおうでも、謗法さえなければ、商売は一生懸命になるし、金はできるに決まっています。ところが、いくらもうけても、高い利息を払ったらどうにもなりません。それで、不熱心はだめです。

折伏だ折伏だといって、商売もしないで、折伏に歩いている人がいるのです。このなかには、そのような人はいないでしょうね。折伏はすべきである。しかし商売を放ってまですべきではありません。四条金吾殿という方は、ひじょうにりっぱな方でありまして、本名は四条中務三郎左衛門尉頼基【なかつかささぶろうざえもんのじょうよりとも】と申し、左衛門という官名が中国で金吾というので、四条金吾となったのです。日蓮大聖人様が打ち首になるときに、もし、日蓮大聖人様が首を切られたら、追腹切って死のうとした方です。

それほど信心強盛な四条金吾殿が、折伏によって同僚からざん言されて、主君から不興をかったときに、日蓮大聖人様は、主君の御恩をけっして忘れず、今こそ武士の本分を尽くすよう指導されています。また、あるお方が、お手紙を日蓮大聖人様にさしあげたのです。「このごろは忙しくて、法華経を読むひまがありません」と。そのときに、日蓮大聖人様の御返事が「御みやづかい(士官)を法華経とをぼしめせ」(御書全集1295㌻)、勤めが法華経である、商売が信心であるというのです。

この商売に熱心でなかったならば、いまの方はどういう方か知りませんが、高利を払っているということは、不熱心ということです。そうでしょう。合理的ではありません。
それをやめなければなりません。どうやってやめるかを考えなければいけません。その人、その人の事情によるからです。「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」、商売が信心です。その商売を熱心にやらないで、金ができないなど、不熱心ではありませんか。自分のもうけただけそこへ払うならまだいいですけど、ひどいばかは、借りてまで利息を払うのです。そのようなばかなことをしていて、商売熱心だといわれますか。私は、商売熱心ではないと思います。不熱心です。どうか、熱心にがんばりなさい。

 

お金の出る方が多い

[質問] お金がはいるより、でるほうが多いのですが、なんとかなりませんか。

[答] 「大白蓮華」に、過去世に泥棒をやってきたものは、毎日毎日はいってくるお金はあるけれども、それより早くお金がでていってしまうと、私が書いたのですけれども、勝手に書いたのではないのです。それは、釈尊がいっているのです。私がいったのではありません。その次には、日蓮大聖人様がおっしゃっていることがあるのです。「般泥洹経【はつないおんきょう】に云く」とおっしゃっているのです。ここが問題なのです。

経の内容は「おまえは貧乏人だと、どういうわけかというと、前の世に泥棒したから貧乏なのだ」と。「はあ、そうでございますか」といって、「それでは、私過去に泥棒したのですか、よくわかりました」といっただけでなんになりますか。このなかにも、そうとう過去世の泥棒がいるらしい。さきほどの奥様が、永遠の生命論を教えてくれといったが、それを聞いただけでなんになりますか。いま私のところにお金がないのは、過去世の泥棒のせいだ、これから泥棒してはあいならん、また未来世においてこういう貧乏するといわれて、それがもっともだとわかってどうしますか。貧乏を喜んでいけますか。そこに、釈尊の仏法と、日蓮大聖人様の仏法との相違があるのです。

いろいろ貧乏をしているのは、過去に泥棒したからとわかっても、「申しわけありません」と、だれにあやまるのですか。だれのをとったのかわかっていないし、覚えていません。わかっていれば返しに行けるけれども、だれのをとったのか覚えていない。それなのに文句をいわれて、貧乏人にされるのは迷惑です。仏様もずるいです。われわれにはわからないのですから。「そういうわけで、おまえは貧乏しているのだから、がまんしていろ」というのは、それはお釈迦様のほうがずるいです。

それを、日蓮大聖人様が、「そうしんぼうすることはいらんぞ。どうせ前の世では、おまえらろくなものではないのだから助けてやる」と大慈大悲を起こされたのです。観心本尊抄という御書に、はっきりしていますが、「ここで御本尊をおまえたちにあずけておくから、この御本尊を拝め。過去世でいかなることをしておろうとも、過去世で仏になるくらいの資格をつくった人の功徳と、同じ功徳をおまえらにくれるぞ」とおっしゃって、御本尊様をお与えくだされたのが、日蓮大聖人様なのです、心配いりません。

日蓮大聖人様の五字七字の御本尊を、三大秘法の御本尊を拝むところにおいて、権迹本【ごん・しゃく・ほん】の仏の因、如是因【にょぜいん】といいますが、そういうものを、われわれにくださっているのです。過去世で謗法をやっていてもいいのです。牢になど連れていきませんし、刑事も引っ張りにきません。前の世にやったことですから。安心して御本尊様を拝めば、大金持ちの種を植えたことになるのですから、安心して金持ちになって、そしてどこかへ遊びに行っていらっしゃい。

 

貧乏の鉄鎖を切る(1)

貧乏の鉄鎖を切る(2)

貧乏の鉄鎖を切る(3)

魔との戦い ~御書三編

貧乏の鉄鎖を切る(4)

貧乏の鉄鎖を切る(5)

貧乏の鉄鎖を切る(6)

貧乏の鉄鎖を切る(7)