武田信玄「五分の勝利を上とす」(1)

賢将は「五分」の勝利を上とす
―『私の人間学(下巻)』池田大作著p.116~から抜粋―

「勝負」に関しての武田信玄の考え方は、まことに意味深いものがある。信玄は何点か述べているが、一つは、個々の勝負に対する余裕ある心構えである。信玄は、合戦における勝敗について「十分(を)、六分七分の勝は十分の勝なり」(磯貝正義・服部治則校注『甲陽軍鑑』人物往来社)とした。

つまり、十のものならば六分か七分勝てば十分であるとし、とりわけ大合戦においてはこの点が重要であるとした。そして「子細は八分の勝は、あやうし、九分十分の勝(は)、味方大負【みかた・おおまけ】の下作也【したつくり・なり】」(同前)という。

また信玄は、戦いでの勝利は、五分をもって「上」とし、七分をもって「中」とし、十分をもって「下」とする、と常々、語っていた。それはなぜか。五分の勝利は励みを生じ、七分は怠りをもたらす。十分の勝利は傲りを生むからである。五分ならば “半ば敗れたが、半ば勝った。次こそ頑張ろう” と励みの心を起こす。まして十分も勝ってしまったら、必ず傲りの心を生じる、と。こうした理由から、信玄は、あえて六、七分の勝ちを越そうとはしなかったという(岡谷繁実『定本名将言行録〈上〉』新人物往来社)。

(中略)
徳川家康にとって、生涯ただ一度の負け戦――それは、信玄と覇を争った元亀3年(1572)12月の三方ヶ原【みかたがはら】の戦いであった。兵力のうえでも劣っていた家康の軍は、周到な計画と万全の態勢で臨んだ武田軍に完敗した。それも敗走中に家康が失禁したとのエピソードも伝わるなど、完膚なきまでの敗北であった。
(中略)
以来、家康は、信玄の軍学を自らのものとし、戦国の世を勝ち抜き天下を取った。そして265年にも及ぶ徳川幕府の基【もとい】を築いたのである。

敗北が、次の勝利への因となる場合がある。反対に、勝利の時に敗北の原因をつくることも多い。家康は、三方ヶ原の戦で信玄に敗れた。しかし、そこから信玄の兵法を学び、最後は天下人としての大勝利を得た。つまり、自らの大敗を、より大きな勝利への源泉とすることができた。ここにも、家康の、指導者としての度量の大きさがうかがえる。

 

執念をもって勝ちきっていくことは大事なことである。だが100点満点を取れなかったとしても、それを次の勝利への因とすることはできる。決して負けることの弁解に利用してはならないが、時には目先の勝ちより大事なものがある。

 

 

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続・第六天の魔王を恐れるな! -指導集(6)

●勝利の経典「御書」に学ぶ(‘09-4月号)


大聖人は「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997㌻)と仰せです。
元品の無明は、あらゆる人々に本然的に具【そな】わります。大聖人は仏にも具わっていると言われている。ゆえに「等覚の菩薩」という、悟りにおいては仏と等しい智慧を得た菩薩であったとしても、元品の無明が第六天の魔王の働きを起こし、最高位である妙覚へと至ることを妨げることがあると説かれています。等覚の菩薩でさえ、そうであるならば、凡夫はなおさらのことです。

いわば、第六天の魔王とは人間の生命に潜む根源的な悪の働きのことです。この魔性が、支配欲や殺【さつ】の心を起こし、破壊、戦争を引き起こしていく。この魔性を破るために大切なのは、元品の無明と同様、万人に具わる「元品の法性」を顕現させることです。そのためには、自行化他にわたる信仰をたゆまず実践し続けていくこと自体が重要なのです。

ある時、戸田先生は、御本尊の相貌【そうみょう】の中に第六天の魔王が認【したた】められていることについて、こう講義されたことがあります。「第六天の魔王が御本尊のなかにいる。そうすると御本尊を拝みたてまつるときに、第六天の魔王は御本尊のいうことを聞くのです。第六天の魔王がほかの魔将【ましょう】を命令で、きちんと押さえるのです。本有【ほんぬ】、すなわちもともとの立派な姿となって、御本尊のなかにあらわれてくる。みな南無妙法蓮華経に照らされて本有【ほんぬ】の尊形【そんぎょう】となる」

先生はさらに「初めて人を助ける第六天の魔王に変わるのです」とまで言われました。ここに信心の極意があります。「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(751㌻)と仰せのように、元品の無明を打ち破るのは、まさしく「信心」の利剣です。

(中略)
「師弟」は、いかなる魔性をも破る原動力です。反対に、「師弟」を忘れ、忘恩に堕した人間は、皆、無明の生命が強くなり、結局、第六天の魔王の眷属と化【か】してしまったのです。ともあれ、「何があっても恐れない」「一切、魔性に従ってはならない」――これが、魔と戦う信心です。必ず勝つことができます。そしてまた、これが人生の極意ともいえましょう。

 

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第六天の魔王を恐れるな! -指導集(5)

●池田名誉会長の三沢抄講義から抜粋(大白蓮華‘08年7月号)

元品の無明が第六天の魔王に

大聖人は「元品の無明は第六天の魔王と顕れたり」(997㌻)と仰せです。「元品の無明」とは、わが生命が妙法の当体であることへの無知であり、そしてまた、すべての生命が妙法の当体であることへの無知です。さらには、宇宙全体が妙法の当体であることへの無知であると言うこともできます。この根源的な無知は、様々な不幸をもたらす種々の迷いの根本であり、また、あらゆる悪の働きを生む暗い衝動となって現れる。最も認識しがたい迷いであり、正体不明であるがゆえに、知らないうちに、私たちの生命において悪の力を持つようになる。また、あらゆる生命に具わるものであるがゆえに、自他の生命に暗い衝動を現します。

このように最も見分けがたく、しかも、あらゆる生命を悪の力で自在に操る強力な魔性であるゆえに、「他化自在天子魔」といい、「魔王」というのです。しかし、この元品の無明は、強力な悪の力を持っているとはいえ、その正体は、結局は「無知」であるがゆえに、「智慧」によって必ず打ち砕くことができるのです。その智慧をあらわした人が「仏」です。その最極の智慧を教える法が「正法」です。(中略)私たちは、この正法を信ずる「信」をもって仏の「智慧」に代え、凡夫でありながら、元品の無明を打ち破っていくことができます。すなわち、元品の無明を破る力は、「智慧」であり、「信」であり、「心の力」に他ならないのです。(中略)


「日蓮一度もしりぞく心なし」

「日蓮一度もしりぞく心なし」(1224㌻)と仰せの通り、大聖人は、第六天の魔王との闘争にあって、一度も退く心を持たれなかった。そして「権力の魔性」の発動であり、また「死魔」の跳梁【ちょうりょう】でもあった竜の口の法難において、大聖人は堂々と勝利なされた。大聖人は「竜の口までもかちぬ」(843㌻)と仰せです。これは、一人の人間として第六天の魔王との究極の闘争に勝ちきった、との真実の勝利宣言であられる。

この勝利について「今は魔王もこりてや候うらん」(同㌻)とも言われている。これが重要です。自在の魔性を発揮する魔王ですら懲【こ】りたということは、大聖人お一人だけが勝利されたということではなく、元品の無明を打ち砕く真実の智慧の道を後世の人々に残し得たということであると拝察したい。それは、御自分が亡くなった後に、魔王の残党が兵を起こすかもしれないが、すでに大多数は大聖人に降参したことは間違いないと仰せられていることにもうかがえます。実に、ありがたい御本仏であられます。では、大聖人が残された、元品の無明を打ち破る真実の智慧の道とは何でしょうか。それが人法一箇の「御本尊」であると拝したい。佐前と佐後の根本的な違いは、この「御本尊」をあらわされたことにあるのです。(中略)


人類救済の新たな大法興隆の時

大聖人の仏法は、太陽の仏法です。この仏法が出現すれば、これまでの正法・像法時代の仏法は、いずれも太陽が昇った後の星の光のようなものになる、と仏法の興廃【こうはい】を断言されています。太陽は万人を平等に照らします。太陽の光には力があります。闇を破ることができます。闇が深い時代にこそ、人間の持つ無限大の可能性を開く宗教が必要となります。また、闇が深い時代だからこそ、一切の魔性を打ち破り、元品の無明である第六天の魔王の働きに勝利することのできる力強い宗教が不可欠となるのです。

大聖人の仏法は、誰人も尊極な生命を持ち、誰人も太陽の如く輝いていくことができることを説き明かされた希望の宗教です。世界は今、人間主義の宗教を待望しています。いよいよ日蓮仏法が人類史の晴れ舞台に旭日の如く踊り出る時代を迎えたのです。

 

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幹部への指導 -指導集(4)

●正義と勝利の座談会 第2部 2004-7-28付聖教

松村副会長(弁護士) どんな幹部だろうと「会員間の金銭貸借や連帯保証は厳禁」という方針に反し、学会を利用し、組織を乱し、会員に迷惑をかけたならば、場合によっては解任もしくは除名だ。会則に「この会は、会員としてふさわしくない言動をした会員に対し、その情状に応じ、戒告、活動停止または除名の処分を行なうことができる」と明確に定められている。(会則第78条)

青木理事長(当時) おかしくなる連中には、いくつもの共通点がある。我見を振り回して”自分は特別な人間だ”と言いたがる。日常の地道な活動をバカにする。まともに働かない。学会幹部の批判をする。朝に弱く、私生活が乱れている。勤行をサボる。いざという時に、どこで何をしているか分からない。そういう点は皆が皆、同じだ。

秋谷会長(当時) たしかに、その通りだ。原島なんかも、そうだった。

青木 そういう「乱れ」を隠すためにウソをつく。「自分は副会長とツーカーの仲だ」だの、「大幹部に何人も友人がいる」「本部に直結のルートがある」だの、まるで特別なコネでもあるかのようにウソを言いふらす。

秋谷 バカバカしい! 学会は、どこまでも信心の世界だ。「特別なコネ」などあるわけがないし、必要もない。皆、平等だ。そんなことを言う人間がいたら、それは 「魔」だ。鋭く見抜いて、厳しく言うべきだ。場合によっては追放すべきだ。

 

●『希望の明日へ』池田名誉会長スピーチ珠玉集から

◎人をうまく動かす人を見て”あの人は力がある” ”人材だ”という人もいる。だが、根本の「信・行・学」を無視して、要領よく組織や人を動かし、それをもって、広布の人材と考えることは、大いなる誤りである。そういう人は、必ずといってよいほど、人を人間として見なくなり、組織の上にあぐらをかくようになる。そして、みずみずしい信心を失って、堕落と退転の道を歩むことになる。ゆえに”人を使う”ことだけがうまい幹部であっては絶対にならない。――平1・10・24

◎役職が上がるのは、「いばる」ためでは断じてない。よりいっそう、「会員を守る」ためである。また、より強く「仏敵と戦っていく」ためである。ゆえに「戦えない」臆病な人間であっては、リーダーとはいえない。たとえ役職があっても、それは「形式」であり、”信心”ではない。そして成仏は、ただ”信心”で決まる。――平4・8・24

◎将の将たる幹部は、つねに自分の目にふれる範囲に気を奪われているようであってはならない。目に見えない陰の分野で活躍している人たちに、こまかく心を配り、励ますことを忘れてはならない。これが戸田先生の指導であったし、私もつねに心がけてきたことである。――平1・2・14

◎学会を誹謗する人間たちは、自分自身には一個の人格としてなんの偉さもない。社会貢献の行動もない。大法弘通・広宣流布への功労もない。戸田先生への報恩もなければ、学会員への責任の奉仕もない。ただ彼らは、空っぽな自分を大きく見せかけるために、偉大な学会への非難を繰り返しているのである。学会員は、彼らの屈折した心を鋭く見ぬいていきたい。そして、批判されればされるほど、学会の偉大さがいっそう、光り輝くことを確信していきたい。真実は時とともに、明らかになっていく。これまでもそうであったし、これからもそうである。――平3・6・1

 

 

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悪と戦え! -指導集(3)

●紙上座談会から(‘08年7月31日付)

 原田 一切は「師匠に対する姿勢」に表れる。
 退転する連中は、どいつもこいつも「恩知らず」だ。私利私欲に狂い、師匠の大恩を忘れ、師の偉大さに嫉妬する。そこから転落していく。
 正木 そのうえで、大聖人は恩知らずの裏切り者の本質を、鋭く見抜かれた。
 「よくふかく・心おくびやうに・愚癡にして・而【しか】も智者となのりし・やつばらなり」と喝破されている。
 三井 要するに「強欲」「臆病」「愚癡」「傲慢」ですね。
 正木 ①強欲! 金、酒、女に狂い、遊び狂って信心を失う連中だ。
 西山 ②臆病! 広宣流布の戦【いくさ】から逃げ回る卑劣なやつらだ。何かと屁理屈をこねて、折伏をしない。勤行をしない。学会活動をしない。
 総じて勇気がない。いるだけ足手まといの連中だ。

 派閥を作る輩

 原田 ③愚癡! 愚か者で、まんまと敵に騙【だま】され、操られ、踊らされる輩だ。
 こういう連中は、正しい学会指導を聞かず、勝手な派閥を作る。我見で組織を撹乱【かくらん】する。
 正木 そして④傲慢!
 師匠と学会のおかげで偉くしてもらいながら、恩を忘れ「自分は特別」と思い上がるやつらだ。
 そういう人間ほど、根が卑しい。虚栄、虚飾。自分を偉く見せようと、己を飾りたがる。
 笈入 学歴詐称の大ウソをついて「勲1等」をぶら下げ、有頂天になっていた男もいたな。
 原田 大聖人は「大慢のものは敵に随う」と厳しく仰せであられる。
 大恩を仇で返すばかりか、敵に寝返る。「城者として城を破る」ようになる。
 西山 だが、裏切り者の末路は、みな無残だ。
 戸田先生が「退転者は、不思議と、その堕地獄の姿を見せにくる」と断言なさった通りじゃないか。
 原田 戸田先生は、こうも厳しく語っておられた。
 “退転者が惨めな姿を世間に晒【さら】していくのは、いかに仏罰が恐ろしいかを、その姿で証明するためだ”と明言しておられた。
 正木 仏法の因果は厳しい。御書に「師子をほうれば腸【はらわた】くさる」と仰せの通りだ。
 原田 なによりも仏意仏勅の創価学会を追放されるということが、どれほど恐ろしいか。
 戸田先生が“学会を追放されるほど、恐ろしい、可哀想なことはない”と明確におっしゃった通りだ。

●名字の言から(‘08年8月18日付)

▼信長は、この直後、佐久間父子を遠国に“追放”した。勝った末の重臣への処分に、皆が驚いた。信長が自ら筆を執【と】って父子に書き送った「折檻状【せっかんじょう】」には、その理由が記されている。
▼例えば、5年間も在陣していながら何ら成果を出せなかった。相手を大敵だからと攻撃しなかった。守りさえ堅固ならば、いずれ敵は屈服すると安易に構えていた。同志の戦う姿に触れても奮起できなかった。戦況について一度も信長に報告や相談がなかった。そのくせ自分の蓄財だけは怠らなかった――等。怒りに震えながら信長が綴った“罪状”は、19条にも及んだ。
▼戦場に“居る”ことと、“戦う”ことは違う。惰性や慢心や臆病を排し、勝利に向かって勇敢に前進しようとしてこそ、本物の戦いと言えよう。
▼御書に「仏法と申すは勝負をさきとし」(1165㌻)と。私たちの広宣流布の活動も、友の幸福を願い、仏縁を広げる“戦い”だ。さあ、常在戦場の気概で、下半期も楽しく、友好の対話を拡大していこう!

●体験のページ、に引用された池田先生の言葉から(‘08年8月21日付)

 いくら泣き言を言い、運命を嘆いても始まらない。心強く生きる人が本当の幸福をつかむことができるのです。朝の来ない夜はありません。

●名誉会長のスピーチから(‘08年8月3日付)

法を壊す悪と戦う人が菩薩

一、天台大師の師匠である南岳大師の言葉に、こうある。
「もし菩薩がいて、悪人をかばって、その罪を罰することができず、そのために悪を増長させ、善人を悩乱させて正法を破壊させるならば、その人は、じつは菩薩ではない」(御書1374㌻、通解)
正法は全人類を幸福に導く。悪人は、その法を破壊する。
悪と戦ってこそ、菩薩なのである。
正義の師弟を貫くのは、「破折の精神」「折伏の精神」「広宣流布の精神」にほかならない。

ドイツの哲学者カントは喝破した。
「陰険な人間、それは思いやりがなく、冷酷で、人を傷つけて喜ぶ人間である」(『カント全集15』、岩波書店)
同じくドイツの詩人シラーは、「卑劣な人間がいるところ、嘘と陰謀がはびこる」と綴っている(戯曲「ヴァレンシュタイン」)。
戦おう! 正義を守るために。邪悪を打ち破らなければ、いい人材は育たない。

「清浄な創価学会の組織を撹乱【かくらん】する者を追放せよ」
これが、戸田先生の厳命であった。

また、牧口先生は、人事について「親分子分だけの関係で人事をやってはいけない」と戒められたという。
そういう人事は、結局、うまくいかないものだ。皆からも支持されない。
広布のための組織である。決して公私混同してはいけない。

(中略)
戸田先生は語られた。
「社会の不幸に目をつぶって、宗教の世界に閉じこもり、安閑【あんかん】とただ題目を唱えているだけなら、大聖人の立正安国の御精神に反している。
この世の悲惨をなくす。不幸をなくす。人権を、人間の尊厳を守る。平和な社会を築いていく。そのなかにこそ、仏法の実践があるのだ」と。
この「戦う心」を忘れ去ったのが、日顕宗である。

「民衆に慕われながら、民衆の生活の中に飛び込んで広宣流布していくんだ」と、率先して陣頭指揮をとられる戸田先生だった。
先生は、こうも言われた。
「権威なんか恐れることはない。だれ人たりとも恐れる必要はない。
権威を恐れていては民主主義が破壊される。それでは民衆が、かわいそうではないか。あくまで主権在民である」と。
どこまでも、民衆が強くなるため、民衆が賢くなるための学会活動である。最高幹部は心しなければならない。

●随筆 人間世紀の光 137 から

蓮祖大聖人の御一代の主戦場は、いずこであったか。

それは、東海道の天地である。

修羅闘諍の鎌倉時代――。
本来、民を救うべき坊主は、貴族の都の繁華に逃れて、安逸を貪っていた。都での分け前よりも多くを望んだ坊主は、幕府におもねり、鎌倉の大伽藍に庇護を求めた。
ただ己の我欲と保身のみであった。爛れた虚栄の軟風に侵された「京なめり」の腐敗と堕落でさえ、大聖人は痛烈に破折なされた。

不幸に喘ぐ民衆を救わずして、何が宗教だ!

苦悩の渦巻く社会の現実を変えずして、何が仏法だ! 法華経の魂は、腐りきった坊主の魔窟になど絶対にない。断じてない。

アメリカの人権の闘士キング博士は、人間の魂を脅かす社会悪に挑もうとしない宗教は「精神的に死にかかった宗教」であると、厳しくも断定している。


仏法の真髄とは何か。

民衆のなかへ飛び込むことだ!
人間のなかへ、社会のなかへ飛び込み、現実変革の怒濤を起こしゆくことだ!
この日蓮仏法の究極の実践者こそ、創価学会である。