武田信玄「五分の勝利を上とす」(2)

また上に立つ者は結果だけに捉われるのでなく、メンバーの戦いの「プロセス」への評価をより重要視すべきである。数字は血の通わない冷酷な側面を持つ。その陰に、メンバーの血の滲むような奮闘が隠れている場合があるからだ。

特に今回の戦いでは短期決戦であった。普段なら何カ月も前から少しずつ労力・手間をかけて進めていくべきところを、約20日余りの短時日に一気にやり切る必要があった。それだけ戦った人の心身に多大な負荷がかかる法戦であった。

1人1人がどれだけ戦ったかは御本尊がすべてお見通しである。幹部にできることは自分が御本尊にでもなったかのように、人を評価することではない。それは幹部の傲慢であろう。もちろん幹部といえども人間革命の途上であり、当然間違いもあるだろう。組織としても、一定の論功行賞があるのは当然であるが、「冥の照覧」が生活等に厳然と顕れることを確信するのが真の信心だからだ。

「限界突破」といえば聞こえはいいが、それにこだわる余り、無理をし過ぎて大きな失敗を招く場合がある。自らが大変な時こそ、一言の労い【ねぎらい】の言葉をかけていけるような、「心の余裕」を見失ってはならないと反省させられた法戦であった。

 

クリックを宜しくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


武田信玄「五分の勝利を上とす」(1)

賢将は「五分」の勝利を上とす
―『私の人間学(下巻)』池田大作著p.116~から抜粋―

「勝負」に関しての武田信玄の考え方は、まことに意味深いものがある。信玄は何点か述べているが、一つは、個々の勝負に対する余裕ある心構えである。信玄は、合戦における勝敗について「十分(を)、六分七分の勝は十分の勝なり」(磯貝正義・服部治則校注『甲陽軍鑑』人物往来社)とした。

つまり、十のものならば六分か七分勝てば十分であるとし、とりわけ大合戦においてはこの点が重要であるとした。そして「子細は八分の勝は、あやうし、九分十分の勝(は)、味方大負【みかた・おおまけ】の下作也【したつくり・なり】」(同前)という。

また信玄は、戦いでの勝利は、五分をもって「上」とし、七分をもって「中」とし、十分をもって「下」とする、と常々、語っていた。それはなぜか。五分の勝利は励みを生じ、七分は怠りをもたらす。十分の勝利は傲りを生むからである。五分ならば “半ば敗れたが、半ば勝った。次こそ頑張ろう” と励みの心を起こす。まして十分も勝ってしまったら、必ず傲りの心を生じる、と。こうした理由から、信玄は、あえて六、七分の勝ちを越そうとはしなかったという(岡谷繁実『定本名将言行録〈上〉』新人物往来社)。

(中略)
徳川家康にとって、生涯ただ一度の負け戦――それは、信玄と覇を争った元亀3年(1572)12月の三方ヶ原【みかたがはら】の戦いであった。兵力のうえでも劣っていた家康の軍は、周到な計画と万全の態勢で臨んだ武田軍に完敗した。それも敗走中に家康が失禁したとのエピソードも伝わるなど、完膚なきまでの敗北であった。
(中略)
以来、家康は、信玄の軍学を自らのものとし、戦国の世を勝ち抜き天下を取った。そして265年にも及ぶ徳川幕府の基【もとい】を築いたのである。

敗北が、次の勝利への因となる場合がある。反対に、勝利の時に敗北の原因をつくることも多い。家康は、三方ヶ原の戦で信玄に敗れた。しかし、そこから信玄の兵法を学び、最後は天下人としての大勝利を得た。つまり、自らの大敗を、より大きな勝利への源泉とすることができた。ここにも、家康の、指導者としての度量の大きさがうかがえる。

 

執念をもって勝ちきっていくことは大事なことである。だが100点満点を取れなかったとしても、それを次の勝利への因とすることはできる。決して負けることの弁解に利用してはならないが、時には目先の勝ちより大事なものがある。

 

 

クリックを宜しくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


心の壁を取り払え!

既成概念    -きせいがいねん
固定観念    -こていかんねん
先入観      -せんにゅうかん

といった言葉がある。それぞれの意味はここでは省略するが、この3つとも、往々にして我々の行動を縛ることがある。特に環境の変化が大きい場合に、この3つにとらわれ過ぎると、適切な行動が取れず失敗を繰り返してしまいます。

既成概念とは常識です。常識的な発想の範囲から抜け出せなければ、変化に対応もできませんし、独創的なものを生み出すこともできません。

固定観念とは、知らず知らずの内に沁みついた経験です。物事を為すに当たって、勝手に決め付けている考え方、とらわれているクセです。

先入観とは、人や物事を見るに当たって、無意識にフィルターを通してみているのです。フィルターによって一定のバイアスがかかり、歪んだ映像を見ていることになります。先入観は、先に得た少ない情報にとらわれ、対象をありのままに正確に認知できていない状態とも言えます。

環境が大きく変化した場合、または自ら大きな変革を起こそうとする場合に、これら3つが障害物となって前進を妨げてしまうのです。町おこし において大きく力を発揮する存在は、

若者
ばか者
よそ者

と言われるそうです。なぜなら、こういう人たちは、上に挙げた3つの欠点が無いからです。

「若者」は、頼るべき経験がそもそもありません。「ばか者」は、時として足かせとなる知識も知恵も持っていません。「よそ者」は、その土地について無知で、余計なしがらみがありません。

つまりこの3者は、既成概念、固定観念、先入観に縛られることなく、自由自在に活躍しやすい素地があるのです。これは何も町の復興だけでなく、個人の行動にも言えることだと思います。

いかに私たちが、1つの行動を起こすに当たって、胸中に作ったそれら壁の前で、逡巡(しゅんじゅん)し諦めていることか。特に悲観的な傾向の人や、自己肯定感の低い人は、これら3つの壁も分厚く高い壁となって立ちはだかります。

諦めの習慣が身につくと、簡単にできることさえ不可能にしてしまいます。サーカス団に買われた子どもの象を思い浮かべてください。小象は杭(くい)につながれますが、そこから逃げようと何千回、何万回も杭を引き抜こうとします。しかし杭を抜くには非力なため抜けません。鎖が肉に食い込み、血が噴出すまで、杭を抜く必死の努力を繰り返します。

こうして成長した象は、小さな杭によってつなぎ止められています。抜こうと思えば簡単に抜ける大力があるにも関わらずです。

このサーカス象の例が、既成概念・固定観念・先入観というものに、我々がいかに縛られているかということに気付かせてくれます。では、これらの壁を打ち壊すものは何でしょうか。それは強い意志に基づいた楽観主義です。究極のポジティブ志向により、1つ1つの壁を崩し撤去する作業が必要です。それは希望を創り出す一歩一歩となるのです。

レオ
(5年前に私が書いた文章です)

 

↓クリックを宜しくお願いします。
にほんブログ村 オヤジ日記ブログ 50代オヤジへ
にほんブログ村


リーダーシップについて

「リーダーッシップ」について学ぶことが、自分の最近の大きなテーマとなっています。1枚目の写真は、大枚・税込3,024円で購入した『グロービスMBAリーダーシップ』の新版です。3分の2程まで読み進んだところです。

 

リーダーシップ01

古くからのリーダーシップ論に加えて、最新の理論や動向も述べられています。新版の最大の特徴は、第1部が理論編であるのに対して、第2部が実践編として、73ページもの紙幅が割かれていることです。

2枚目の写真は、学会においてはリーダーシップについてどのような指導がされているのだろうということで、青年部時代に頂いた資料を再読してみました。

リーダーシップ02

この昔の資料から、特に印象に残った部分を抜粋致します。

●北海道夏季研修会 平成3-8-18

強き一念、率先垂範のリーダーに

◇ 戦いにおいては、まず「将」自らが闘争の意志を鮮烈に示すことである。あいまいな、腹の決まらないリーダーのもとでは、あとに続く人々の士気が高まるはずがない。

◇ 自ら先駆を切って進む――。「率先垂範」こそ広宣流布のリーダーの条件である。
 反対に、口ばかりで、ろくに行動もせず、いつも人を”動かそう”とする指導者では、人々は歓喜も出ないし、自信もつかない。ゆえに全体が敗北の方向に行ってしまう場合がある。
 ともあれ、リーダーの「人格」「信念」「行動」の差が、勝負を決するといってよい。

◇ 特にリーダーに、その「強盛な祈り」と「確信」があるかどうか、何ものにも屈しない「不敗の一念」で戦うかどうか――そこに「前進」か「後退」か、「幸福」か「不幸」かの大きな分かれ目がある。
 いかなる組織・団体においても、臆病な、「心」の弱い指導者をもつことほど不幸はない。”一念の弱さ”――これはリーダーにとって致命的な欠陥である。歴史上、中心者の臆病によって大勢の人を不幸に巻き込んだ悲劇も数知れない。

●出典不明のご指導 2000-2-16以前の資料から

◇折伏の実践について

■ 折伏は、喧嘩しに行くのではない。どこまでも慈愛です。戸田先生は言われた。
「折伏を素直にどんどんしなさい。それから、人を憎んではならない。けんか口論はいけない。まじめに、やさしく教えればよい。その教える精神ができればよいのです。それで反対すれば、反対した本人がだめになる。やさしく教えるという気持ちです。恋愛みたいなものです」と。
おもしろいことをおっしゃるね、戸田先生は。恋愛なら、みんな一生懸命だろう。何枚も何枚も便箋を無駄にして、手紙を書いたり、今度の休みの日、どんな言葉で誘おうかなと、夜が明けるまで考えたり。それでうまくいって、結婚して後悔するようなことは、「折伏」にはないけれども。

■ 大切なことは「真心が通じますように」との祈りです。祈りから智慧も生まれる。確信も、歓喜も生まれる。大変だけれども、その人が必ず幸せになり、自分も幸せになっていくことを思えば、これほど「楽しい」こともない。戸田先生はよくおっしゃっていた。
「折伏というものは苦しんでやるものではない、楽しくやらなければなりません」と。(中略)根本は「私にも、仏様のお使いをさせていただけるんだ」と喜び勇んで、語っていくことではないだろうか。

 

◇何のための報告・連絡・相談なのか

 「これでいい」という自分自身への甘えや惰性を排して、現実のあらゆる「壁」「限界」を打ち破り、勝利への確固たる流れを作るために報連相(ほうれんそう)は大切なのです。
誰しも広宣流布の戦いをやっていると思うものです。しかし、現実には、自分以上に広宣流布を真剣に考え、また悩んで指揮を執っている先輩がいるものです。その先輩にぶつかっていく時に、自身の悩んでいる「壁」や「限界」を打ち破っていけるのです。

 

ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へにほんブログ村


ナレッジ・マネジメントと暗黙知

経営学について学び続けてもう10年近くなりますが、経営には様々なフレームワーク(分析ツールや思考の枠組み)があります。その1つがナレッジマネジメントと呼ばれるものです。ナレッジ(knowledge)とは知識のことです。

暗黙知を形式知に変換することにより、組織変革やイノベーション(技術革新)を促し、新しい価値を創造しようとするのがナレッジマネジメントです。

ではここでいう暗黙知や形式知とは何でしょうか。「暗黙知」とは、言葉で表現しにくい主観的なノウハウや信念といった、他人に伝達することが困難な知識です。一方、「形式知」とは言語化可能で文書や言葉で表現できる客観的な知識です。マニュアル化できるのが形式知で、できにくいのが暗黙知と考えて差し支えないでしょう。

一般に「暗黙知」よりも「形式知」のほうが多く利用されており、一説には、
「人が有する知識のうち80%は暗黙知で、残りの20%が形式知である」
といわれています。つまりは、企業がいくら社員の知識を活用しているといっても、それはわずか20%の知識でしかない、ということになります。

よく「知恵と知識を混同してはいけない」 あるいは「いわば『知識』はポンプ、『知恵』はポンプによって得られる水です。水を使えなかったら、ポンプに意味はない。また、『知識』という、ポンプなくしては『知恵』という水も十分には得られない」とのご指導があります。ある意味でその「知恵の領域」に踏み込んでいくのが、暗黙知でありナレッジマネジメントなのかもしれません。

→暗黙知と形式知

→ナレッジマネジメントと暗黙知

 

特に2つ目のリンク先ページを下にスクロールすると出てくる、「高齢社員のスキル移転」という項が興味深いと思います。
(H28.11.4 加筆・修正しました)

 

ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へにほんブログ村