役職について(2)

すべての会員が役職を持つ訳ではありませんが、役職があるとないとでは、成長の度合いが大きく違ってきます。役職を担うことによって信心が深まり、使命の自覚も進むからです。ただし、先生が仰っているように、役職は広宣流布を進め会員の幸福を実現するためのあくまで「手段=方便」です。厳しく言えば、もし仮に広布を前進させられない役職であったとしたら、無意味であるだけでなく、じゃまをしている場合もあるのです。幹部が学会に偉くしてもらいながら、自分の力で偉くなったと錯覚し傲慢になったり、あるいは民衆仏法という魂を忘れ、貴族仏教かまたは、悪しき特権階級に成り下がったとしたら、役職を設ける意味が無いです。

他にも、自分を飾るために役職を利用するのではなく、逆に自分の戦いで頂いた役職を輝かせていくのだ、とのご指導もあります。役職の数には限りがあるので、希望する人すべてが就ける訳ではありません。役職者として必要な資質や実績はもちろん、仕事の状況、健康状態等も、当然厳しく選考されます。いずれにしても、役職があろうと無かろうと同じ思いで戦い行動できてこそ本物です。役職が無ければ戦えないのだとしたら、どこかに人の評価を気にする打算的態度があるのではないでしょうか。

なかには、「希望した役職に就けなかったから」との理由で、活動を一切辞めた人がいます。人事の権限は上位役職の人たちが持っていますので、時には「これほど戦ってるのに上がらないのはなぜ?」と感じることがあるかもしれません。その傍で、とんとん拍子に上がっていく人を見ると、複雑な心境になることもあるでしょう。仮にそう思う時があったとしても、役職を理由に心が腐ったり信心を退いたとしたら、これほど愚かなことはないです。役職が信心の目的ではないのです。先の指導にもあるように、広布を進めるいち方便として役職があるのです。

あえて申せば、本当に役職に就きたいと思うなら、見事なる広布と折伏の成果・実績を上げ、人間としての人格・力量においても成長を強く志すのです。その結果として、「もうこの人に任せるしかない」とほとんどの人の見方が一致する戦いをしているなら、もはや、上位の人事権者が任命をためらう理由はないのです。何より我が命を懸けて広布の使命を果たそうとの決定した一念と行動があれば、役職は後からついてくるでしょう。極論すれば、全員が会長になる必要もなければ、逆に全員がブロック・地区幹部になる必要もない。学会の役職は会員のためにこそあります。したがって己が責任を真剣に果たしている役職者は、どの人も一人ひとりなくてはならない大切な存在なのです。

そもそも、役職は人間に「序列」を付けるものでは決してありません。役職が高いから人間として偉いのか、特別な人間なのか、そんなことはないのです。境智行位という法門で「仏法上の生命の位」が高いとしても、民衆に尽くしぬいてこその現代の力あるリーダーです。「リーダは民衆に仕える召使である」との意味もそこにあります。戸田第2代会長いわく、「出来の悪い人間(幹部)ほど威張っている」との指摘を胸に当てるべきです。役職は軽視してもいけませんが、絶対視してもいけないと思います。あらゆる角度から正視眼でとらえる必要があるのです。

 

↓クリックを宜しくお願いします。
にほんブログ村 オヤジ日記ブログ 50代オヤジへ
にほんブログ村


役職について(1)

6年前に書いた記事を元に、役職について考察します。

◆平成15年12月13日付、聖教 「海外・第2総東京代表協議会でのSGI会長のスピーチ」から

 広宣流布の役職を全うするなかで、自分自身の「境涯」が開かれる。

 広宣流布の責任を担って、粘り抜いた人間が、最後に勝つ。役職を軽視して、勝手気ままに生きる人は、一時は、いいようでも、大福運の道を自ら閉ざす。人生の最終章に苦しんでしまう。

 仏法に「境智行位【きょうちぎょうい】」という法門がある。「境」とは獲得すべき真理である。学会の役職にあてはめれば「果たすべき使命」といえよう。その使命を果たすために「智慧」を尽くし、「行動」を尽くしていく。そこに仏法上の生命の「位【くらい】」が連動している。

◆平成15年8月22日付、聖教 協議会での名誉会長のスピーチ

一、戸田先生に、ある青年部の幹部が聞いたことがある。「故郷に錦を飾るとは、どういうことでしょうか」

彼は社会的な名声が欲しかったのである。戸田先生は、その卑しい虚栄の心を見抜いて、厳しく叱られた。いくらお金をもうけても、社会的な名声を得ても、民衆を犠牲にする人間は悪党である。

戸田先生は折に触れて言われた。
「創価学会の幹部といえば、世界一の名誉だ。世界一の宝だ。学会は広宣流布を成し遂げる平和の団体である。その誇りをもって、故郷に帰ればいいのだ」
「学会の幹部として戦う。人のため、法のため、平和のために働いている。これほど尊いことはないじゃないか。仏法即社会であり、一番尊い社会的地位だ。それを卑下するような人間は、私の弟子ではない」

長身の先生が発する声は雷鳴のようだった。眼光も鋭い。邪悪を見抜く直感は天才的だった。学会の役職には永遠の功徳が光る。尊き同志の頭上に「幸福の宝冠」が輝きわたることは、御聖訓に照らして絶対に間違いない。

◆平成10年10月号 大百蓮華「法華経の智慧第45回 嘱累品より」

 根幹は、師匠対自分です。組織の機構や役職等は方便です。それをまちがうと、大変です。仏法という「師弟の世界」を壊して、官僚的な「形式の世界」にしてしまったら、大変なことになる。どんなに人知れず、陰で働いていても、師匠の指導通りにやっているならば、師弟相対は深い。それが外れていたら、どんなに華々しく行動していても、何にもならない。師弟の道を離れて、仏法はないのです。

(つづく)

 

↓クリックを宜しくお願いします。
にほんブログ村 オヤジ日記ブログ 50代オヤジへ
にほんブログ村


十四誹謗は功徳を消してしまう

・説明できることと、そのことを体現していることは大きな違いがある。

・説明できることと、実践していることは全く違う。

・言葉のやり取りだけが「声仏事をなす」のではない。相手を傷つけようとの心ない言葉が、仏の仕事であるはずがない。

・十四誹謗は厳に戒めていきたい。同志を謗【そし】ることは、魔に負けた姿であり、結局は自分を傷つけるのと同じであるからだ。

 

最近思ったことを箇条書きにしてみました。この十四誹謗はなかなかの曲者です。自分もちょっと油断すると、同志を悪く言う命が出てきます。常に、自分で自分を戒めていきたいと思います。次に、十四誹謗について、先生が指導された内容を紹介します。

 

■池田SGI会長の指導から

 日蓮大聖人は、松野殿が質問された「聖人が唱えられる題目と、私たちが唱える題目と、その功徳に違いがあるのでしょうか」(御書1381ページ)との疑問に対して、「違いはない」(同)とされたうえで、「ただし、法華経の心にそむいて唱えれば違いが出てくる」(1382ページ)と教えられている。
 その「法華経の心にそむく」ことを、具体的に述べたのが十四誹謗である。いいかえれば、十四誹謗がなければ、唱題の功徳は同じであり、計り知れないと述べられているのである。

 「松野殿御返事」では、妙楽大師の『法華文句記』の次の文を引かれて、十四誹謗を明かされている。
 「悪因には十四の謗法がある。一に驕慢【きょうまん】、二に懈怠【けたい】、三に計我【けいが】、四に浅識【せんしき】、五に著欲【ちゃくよく】、六に不解【ふげ】、七に不信、八に顰蹙【ひんしゅく】、九に疑惑、十に誹謗【ひぼう】、十一に軽善【きょうぜん】、十二に憎善【ぞうぜん】、十三に嫉善【しつぜん】、十四に恨善【こんぜん】である」(同)と。

 この『法華経文句記』の文は、「法華経譬喩品」の「若【も】し人は信ぜずして 此【こ】の経を毀謗【きぼう】せば 則【すなわ】ち一切世間の 仏種を断ぜん」(法華経198ページ)との有名な文を含む一節を釈したものである。法華経、すなわち「正法」への誹謗と、「正法を信じ行ずる者」への誹謗が、ともに地獄の因となることを明かしている。―――1990・12・3

           ※

 必ず所願満足の人生、永遠なる幸福境涯を、自然のうちに会得していけるのが、妙法の功徳なのである。しかし、その功徳も、信心いかんにかかっている。日蓮大聖人も「どのように法華経を信じていても、謗法があれば必ず地獄に堕ちる。それは、千杯の漆【うるし】にカニの足を一つ入れて、漆をだめにしてしまうようなものである」(1056ページ)と仰せである。どんなに真剣に、まじめに信心しているようであっても、謗法があれば、すべての功徳を消してしまう。それは、わずかの青酸カリでたちまち死んでしまうようなものである。

 御書には、悪の因をつくるものとして、十四の誹謗が挙げられているが、そのなかに「軽善【きょうぜん】」(1382ページ)、「憎善【ぞうぜん】」(同)、「嫉善【しつぜん】」(同)、「恨善【こんぜん】」(同)がある。信心している人を「軽んじ」「憎み」「ねたみ」「恨む」ことが、それにあたる。
 懸命に、これほど信心をしているのに、功徳が感じられないという場合が、あるかもしれない。そのときは、この四つの誹謗がないかどうかを、自分に問うてみていただきたい。軽善、憎善、嫉善、恨善の人は、自分で自分の功徳を消してしまうからである。

 もちろん、同志に対しても、言うべきことをきちんと言っていくことは自由であるし、当然、必要なことである。しかし、相手を思って厳しく言うことと、憎しみの心や恨みの言葉は同じではない。その点はよくよく見きわめていかねばならない。御本尊のもとに集い、広宣流布に進んでいる私どもは、すべてが仏子であり、“妙法の家族”である。―――1990・2・20

 《『輝きの人間世紀へ ~御書とその心』のp.107~108/池田大作著/聖教新聞社》

 

 

↓クリックを宜しくお願いします。
にほんブログ村 オヤジ日記ブログ 50代オヤジへ
にほんブログ村

 


10時間唱題(4)

創価大学駅伝部の力走は見事でしたね。往路9位入賞、総合12位と躍進の結果でした。何より襷【たすき】を最後まで繋いでのゴールは感無量でした。

話題を転じますが、先生の89歳のお誕生日おめでとうございます。この嘉日【かじつ】に自分として、毎年恒例になった10時間題目を、昨日・今日とかけて達成することができました。

毎年、1月2日の先生のお誕生日に、単独で10時間唱題するようになって4回目となり、男子部時代に有志で行なったのを含めると合計5回目をやり切りました。今年も最高のスタートをきることができました。

今正月の始に法華経をくやうしまいらせんとをぼしめす御心は木より花のさき池より蓮のつぼみ雪山のせんだんのひらけ月の始めて出るなるべし、

今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよせぬ、此れをもつてをもうに今又法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし、

影は体より生ずるもの法華経をかたきとする人の国は体にかげのそうがごとくわざわい来るべし、法華経を信ずる人はせんだんにかをばしさのそなえたるがごとし
(十字御書1492ページ)

御書のあとに、先生の指導も胸に刻みたいと思います。

創価学会は貧しい人の味方です。一番、真面目に働き、一番、苦労している人の絶対の味方です。その人たちが福運をつけ、皆が幸せで裕福で、健康で楽しく生きていけるために戦っているんだ。
(聖教新聞H29年元旦号)

今年こそ、壁を破る戦いをしていきます! 先生に喜んで頂ける報告をします! 至らぬ部分も多いと思いますが、陰に陽に励ましを頂き、支えてくださっている多くの方々に、御礼を申し上げるとともに、今後とも何卒宜しくお願いします。

 

 

↓クリックを宜しくお願いします。
にほんブログ村 オヤジ日記ブログ 50代オヤジへ
にほんブログ村