仏法入門の音声資料

「聖教オンライン」のサイトで、「任用試験のために」と題して、ナレーターが教材を読み上げた資料を視聴できます。

→仏法入門の音声

 

任用試験と言えば未だ気が早いですが、善は急げですからお時間の許す方は早めに対策を開始されてはいかがです。任用より先に「青年3級・初級試験」が行われますから対象者の方は、もう一度基本をおさらいするためにも、活用してみてください。

ちなみに、音声ファイルを全てダウンロードして、メディア・プレーヤー等で CD-R に焼けば、ラジカセ等の CD プレーヤーで再生することもできます。自分がやってみたところ、CD-R 二枚に全ての音声を収めることができました。目の不自由な方、小さい文字が見えにくい方、活字を読むのが苦手な方はぜひお役立てください。

 

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今年100万遍達成

今年になって今日までで104万遍の題目があがりました。2009年元日から毎日90分の持続、2016年4月からは毎日120分に伸ばし、この8年4カ月に限れば、合計1856万遍となりました。再発心してからの約30年間の通算では4314万遍を達成しました。この節目にまた御書を拝しましょう。

我等も無明の卵にしてあさましき身なれども
南無妙法蓮華経の唱への母にあたた(暖)められまいらせて
三十二相の觜(くちばし)出でて
八十種好の鎧毛生(よろいげ・おい)そろひて

実相真如の虚空(こくう)にかけるべし
(新池御書 p.1443㌻)

[通解] われらも無明(迷い)の卵で、あさましい身であるけれども、南無妙法蓮華経の唱題の母に温められて、三十二相の觜(くちばし)が出てきて、八十種好の鎧毛(よろいげ)が生え揃い、実相真如の大空に飛ぶことができる。

[ポイント講義] 自身の可能性を開花させる、唱題の力の偉大さを教えられた一節です。
 
 

(5月9日 北海道苫小牧市内にて撮影。クリックで拡大)
 
 
さくら(桜)はをもしろき物
木の中よりさきいづ
(十字御書p.1492㌻)

[通解] 桜は趣(おもむき)のある花だが、木の中から咲き出る。

[ポイント講義] ごつごつした木から桜が咲くように、法華経を信じることによって、凡夫の生命に仏界が涌現することを教えられています。
 
 

続いて先生の最近のご指導を拝しましょう。

大聖人は、「多くの月日を送り読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空【こくう】にも余りぬべし」(御書1194㌻)と仰せである。大聖人の仏勅である広宣流布、立正安国を誓願し、我ら創価の師弟が唱えてきた自行化他の題目が、どれほど莫大であることか。その功徳は、今や壮大に青き地球を包んでいるのだ。
(随筆・永遠なれ創価の大城から 17-5-7)
 
 

最高無上の創価の題目を唱えられることに感謝しつつ、自他の眠れる可能性を開花させゆく、対話の波動を起こしていきます。
(5月9日 一部、加筆・修正しました)
 
 

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民衆仏法の確立こそ出世の本懐の本義

日蓮大聖人の「出世の本懐」の本義は、次の2義です。

1.末法万年の一切衆生を救いゆく「三大秘法が確立」されたこと。
2.「日蓮と同意」との精神でそれを担いゆく、不自惜身命の門下(熱原の農民信徒)によって、「民衆仏法が確立」したこと。

この「広宣流布の誓願」を完全に失い、腐敗・堕落し切った輩が、極悪法主・日顕、日如の流れをくむ日蓮正宗です。反対に、 ”魂の独立” によって大謗法の宗門と離れ、大聖人の御精神を受け継いで、旭日の勢いで世界192カ国・地域へと、広布の道なき道を開いてきたのが創価学会なのです。

今回、このことに迷い真偽が分からなくなっている、宗門信徒の田中島葵夫なる人物から、教義に関するコメントがあったので、この記事のコメント欄にて対話を試みたいと思います。第三者の書き込みも原則として許可しますが、本ブログの「コメント承認ルール」に反するものや、「著しく誠実を欠く」と管理人が判断した場合は、コメント許可しません。なお、最初に書き込まれたコメントは他記事のものでしたが、混乱を避けるため、本記事コメント欄に移動したことを了承ください。

 

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役職について(2)

すべての会員が役職を持つ訳ではありませんが、役職があるとないとでは、成長の度合いが大きく違ってきます。役職を担うことによって信心が深まり、使命の自覚も進むからです。ただし、先生が仰っているように、役職は広宣流布を進め会員の幸福を実現するためのあくまで「手段=方便」です。厳しく言えば、もし仮に広布を前進させられない役職であったとしたら、無意味であるだけでなく、じゃまをしている場合もあるのです。幹部が学会に偉くしてもらいながら、自分の力で偉くなったと錯覚し傲慢になったり、あるいは民衆仏法という魂を忘れ、貴族仏教かまたは、悪しき特権階級に成り下がったとしたら、役職を設ける意味が無いです。

他にも、自分を飾るために役職を利用するのではなく、逆に自分の戦いで頂いた役職を輝かせていくのだ、とのご指導もあります。役職の数には限りがあるので、希望する人すべてが就ける訳ではありません。役職者として必要な資質や実績はもちろん、仕事の状況、健康状態等も、当然厳しく選考されます。いずれにしても、役職があろうと無かろうと同じ思いで戦い行動できてこそ本物です。役職が無ければ戦えないのだとしたら、どこかに人の評価を気にする打算的態度があるのではないでしょうか。

なかには、「希望した役職に就けなかったから」との理由で、活動を一切辞めた人がいます。人事の権限は上位役職の人たちが持っていますので、時には「これほど戦ってるのに上がらないのはなぜ?」と感じることがあるかもしれません。その傍で、とんとん拍子に上がっていく人を見ると、複雑な心境になることもあるでしょう。仮にそう思う時があったとしても、役職を理由に心が腐ったり信心を退いたとしたら、これほど愚かなことはないです。役職が信心の目的ではないのです。先の指導にもあるように、広布を進めるいち方便として役職があるのです。

あえて申せば、本当に役職に就きたいと思うなら、見事なる広布と折伏の成果・実績を上げ、人間としての人格・力量においても成長を強く志すのです。その結果として、「もうこの人に任せるしかない」とほとんどの人の見方が一致する戦いをしているなら、もはや、上位の人事権者が任命をためらう理由はないのです。何より我が命を懸けて広布の使命を果たそうとの決定した一念と行動があれば、役職は後からついてくるでしょう。極論すれば、全員が会長になる必要もなければ、逆に全員がブロック・地区幹部になる必要もない。学会の役職は会員のためにこそあります。したがって己が責任を真剣に果たしている役職者は、どの人も一人ひとりなくてはならない大切な存在なのです。

そもそも、役職は人間に「序列」を付けるものでは決してありません。役職が高いから人間として偉いのか、特別な人間なのか、そんなことはないのです。境智行位という法門で「仏法上の生命の位」が高いとしても、民衆に尽くしぬいてこその現代の力あるリーダーです。「リーダは民衆に仕える召使である」との意味もそこにあります。戸田第2代会長いわく、「出来の悪い人間(幹部)ほど威張っている」との指摘を胸に当てるべきです。役職は軽視してもいけませんが、絶対視してもいけないと思います。あらゆる角度から正視眼でとらえる必要があるのです。

 

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役職について(1)

6年前に書いた記事を元に、役職について考察します。

◆平成15年12月13日付、聖教 「海外・第2総東京代表協議会でのSGI会長のスピーチ」から

 広宣流布の役職を全うするなかで、自分自身の「境涯」が開かれる。

 広宣流布の責任を担って、粘り抜いた人間が、最後に勝つ。役職を軽視して、勝手気ままに生きる人は、一時は、いいようでも、大福運の道を自ら閉ざす。人生の最終章に苦しんでしまう。

 仏法に「境智行位【きょうちぎょうい】」という法門がある。「境」とは獲得すべき真理である。学会の役職にあてはめれば「果たすべき使命」といえよう。その使命を果たすために「智慧」を尽くし、「行動」を尽くしていく。そこに仏法上の生命の「位【くらい】」が連動している。

◆平成15年8月22日付、聖教 協議会での名誉会長のスピーチ

一、戸田先生に、ある青年部の幹部が聞いたことがある。「故郷に錦を飾るとは、どういうことでしょうか」

彼は社会的な名声が欲しかったのである。戸田先生は、その卑しい虚栄の心を見抜いて、厳しく叱られた。いくらお金をもうけても、社会的な名声を得ても、民衆を犠牲にする人間は悪党である。

戸田先生は折に触れて言われた。
「創価学会の幹部といえば、世界一の名誉だ。世界一の宝だ。学会は広宣流布を成し遂げる平和の団体である。その誇りをもって、故郷に帰ればいいのだ」
「学会の幹部として戦う。人のため、法のため、平和のために働いている。これほど尊いことはないじゃないか。仏法即社会であり、一番尊い社会的地位だ。それを卑下するような人間は、私の弟子ではない」

長身の先生が発する声は雷鳴のようだった。眼光も鋭い。邪悪を見抜く直感は天才的だった。学会の役職には永遠の功徳が光る。尊き同志の頭上に「幸福の宝冠」が輝きわたることは、御聖訓に照らして絶対に間違いない。

◆平成10年10月号 大百蓮華「法華経の智慧第45回 嘱累品より」

 根幹は、師匠対自分です。組織の機構や役職等は方便です。それをまちがうと、大変です。仏法という「師弟の世界」を壊して、官僚的な「形式の世界」にしてしまったら、大変なことになる。どんなに人知れず、陰で働いていても、師匠の指導通りにやっているならば、師弟相対は深い。それが外れていたら、どんなに華々しく行動していても、何にもならない。師弟の道を離れて、仏法はないのです。

(つづく)

 

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