新しい御書

御書を新しく購入しました。3冊目となります。1枚目はその写真です。左から新しい御書、使い込んだ古い御書、最初の給料で父に買った御書です。今回買った御書は、「創価学会版」と刻印されています。何年も前から新しいのが欲しかったのですが、なかなか買うことが出来ないでいました。さて、右の2冊はほぼ同時期に購入しましたが、一番右のものはなぜ新しい状態なのか。それは父へ感謝の意を込めて、就職して初めての給料で贈ったのですが、三十数年間ずっと手付かずのままだったからなのです。

何度か父に教学試験を受けるよう勧めましたが、認知症を患い無理となりました。しかし晩年は、私が会合で聞いた話や教学的な話しも、分からないながらもずっと聞いてくれていました。何度かこの御書を手に取って読もうと努力した姿もありましたし、大白の座談会御書を拡大コピーしたものを、声に出して拝読したことも何度もありました。題目は毎日5分位でしたが唱えており、亡くなった日もゆっくりとでしたが、しっかり題目を唱えていました。下の2枚目の写真は、私が最も使い込んだ御書を、大きく写したものです。

とくに皮の表紙がボロボロになり破れもあったので、テープで何度も補修したのですが、この御書はもう限界のようです。御書を初めて買った時、「一冊買えば一生使えるよ」と先輩に言われたのを思い出します。こうして53歳にして、ボロボロになるほど使い込んだからこそ、いささかでも確信もって信心に取り組めるようになったと感慨深いです。ここで御書の一節を拝しましょう。

末法には法華経の行者必ず出来すべし、
但し大難来りなば強盛の信心弥弥(いよいよ)悦びをなすべし、
火に薪(たきぎ)をくわ(加)へんに
さか(盛)んなる事なかるべしや、
大海へ衆流(しゅうる)入る
されども大海は河の水を返(かえ)す事ありや
(椎地四郎殿御書p.1448)

大聖人は大難が来たら「喜びなさい」と仰せです。ここにこそ、信心の極意があるのではないでしょうか。境涯を開くチャンス、宿命転換のチャンスなのですから。今日よりは、新しい御書とともに初心に返ったつもりで、喜び勇んで戦いを進めていきます!

 

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裸形の猛者と甲冑の猛者

真言宗の破折について、御書および講義録から核心部分の一つを抜粋してみたい。

然れば則ち法華経と大日経と敵論の時は
大日経の理・之を奪つて法華経に付く可し、

但し大日経の得分は但(ただ)印真言計りなり、
印契(いんけい)は身業・真言は口業なり
身口のみにして意無くば印・真言有る可からず、
手口等を奪つて法華経に付けなば
手無くして印を結び口無くして真言を誦せば
虚空に印真言を誦結(じゅけつ)す可きか如何、

裸形(らぎょう)の猛者と
甲冑(かっちゅう)を帯せる猛者との譬の事、
裸形の猛者の進んで大陣を破ると
甲冑を帯せる猛者の退いて一陣をも破らざるとは
何れが勝るるや、

又猛者は法華経なり甲冑は大日経なり、
猛者無くんば甲冑何の詮か之有らん
此れは理同の義を難ずるなり、

(法華真言勝劣事p123)


裸の猛者(もさ)と甲冑(かっちゅう)を着けた猛者との譬えについていえば、裸の猛者が進んで敵陣を破るのと、甲冑を着けた猛者が敵陣を前に退いてしまうのとは、どちらが勝れているかは明白ではないか、と仰せになっている。これは、甲冑を着けているかどうかではなく、敵陣を破るかどうかが「猛者」の本質であることを指摘され、印・真言の有無が成仏の法の本質ではないことを示されているのである。

また、猛者が法華経で、甲冑が大日経だとすれば、猛者がいなければ甲冑も何の用にもたたないではないか。とも破されている。法華の法理がない大日経は、無用であることを明かされているのである。以上が、天台真言宗の立てた「理同」に対する破折にあたる。

(日蓮大聖人御書講義第3巻上p50~)

真言は印・真言があるので「甲冑を着けた兵士」であるのに対し、法華宗はそれらが無いので「裸の兵士」であるとの真言宗の邪義に対して、明確に破折された御文である。

譬喩として、甲冑の有無と、猛者が敵陣を破れるか否かが述べられている。それは敵陣を破ることが「猛者」の本質なのであって、印・真言には成仏の本質は無いとの仰せなのである。つまり真言宗の印・真言は一見立派な鎧・兜(よろい・かぶと)を身に着けているようであっても、敵陣を前に退いてしまう弱兵であれば何の役にも立たない。単なる見掛け倒しであり形式に過ぎないのである。それとは対照的に、法華経(の肝心たる南無妙法蓮華経)には猛者が敵陣を破るように、現実に人々を成仏させる無眼の力があることを意味しているのだ。

先の講義録の続きには、このことを重ねて述べている。それが以下の部分である。

(中略)
仏法の根本は成仏であるが、成仏の根本は“法”すなわち“理”を悟ることにあって、印・真言によるのではない。印や真言は既に悟った仏のあらわす力や智慧を象徴するものなのである。一切衆生の成仏得道の“法”は一念三千であり、これらは法華経のみにある。大日経には、一念三千の法理はない。したがって、いかに大日経には印・真言が説かれていると誇っても、根本の成仏の理が説かれていないのでは、全く無意味となるのである。

 

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教学試験の準備

来たる任用試験のために大白蓮華4月号を5冊と、青年1級のために『世界広布の翼を広げて 教学研鑚のために 観心本尊抄』を購入し、読み始めました。早速あさってから、仏法入門(任用)の学習会を始めます。

 


行学の二道をはげみ候べし、

行学たへなば仏法はあるべからず、
我もいたし人をも教化候へ、

行学は信心よりをこるべく候、
力あらば一文一句なりとも
かたらせ給うべし
(諸法実相抄p1361)

広布前進と幸福拡大の行学に励んでいきます!

 

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