幹部への指導 -指導集(4)

●正義と勝利の座談会 第2部 2004-7-28付聖教

松村副会長(弁護士) どんな幹部だろうと「会員間の金銭貸借や連帯保証は厳禁」という方針に反し、学会を利用し、組織を乱し、会員に迷惑をかけたならば、場合によっては解任もしくは除名だ。会則に「この会は、会員としてふさわしくない言動をした会員に対し、その情状に応じ、戒告、活動停止または除名の処分を行なうことができる」と明確に定められている。(会則第78条)

青木理事長(当時) おかしくなる連中には、いくつもの共通点がある。我見を振り回して”自分は特別な人間だ”と言いたがる。日常の地道な活動をバカにする。まともに働かない。学会幹部の批判をする。朝に弱く、私生活が乱れている。勤行をサボる。いざという時に、どこで何をしているか分からない。そういう点は皆が皆、同じだ。

秋谷会長(当時) たしかに、その通りだ。原島なんかも、そうだった。

青木 そういう「乱れ」を隠すためにウソをつく。「自分は副会長とツーカーの仲だ」だの、「大幹部に何人も友人がいる」「本部に直結のルートがある」だの、まるで特別なコネでもあるかのようにウソを言いふらす。

秋谷 バカバカしい! 学会は、どこまでも信心の世界だ。「特別なコネ」などあるわけがないし、必要もない。皆、平等だ。そんなことを言う人間がいたら、それは 「魔」だ。鋭く見抜いて、厳しく言うべきだ。場合によっては追放すべきだ。

 

●『希望の明日へ』池田名誉会長スピーチ珠玉集から

◎人をうまく動かす人を見て”あの人は力がある” ”人材だ”という人もいる。だが、根本の「信・行・学」を無視して、要領よく組織や人を動かし、それをもって、広布の人材と考えることは、大いなる誤りである。そういう人は、必ずといってよいほど、人を人間として見なくなり、組織の上にあぐらをかくようになる。そして、みずみずしい信心を失って、堕落と退転の道を歩むことになる。ゆえに”人を使う”ことだけがうまい幹部であっては絶対にならない。――平1・10・24

◎役職が上がるのは、「いばる」ためでは断じてない。よりいっそう、「会員を守る」ためである。また、より強く「仏敵と戦っていく」ためである。ゆえに「戦えない」臆病な人間であっては、リーダーとはいえない。たとえ役職があっても、それは「形式」であり、”信心”ではない。そして成仏は、ただ”信心”で決まる。――平4・8・24

◎将の将たる幹部は、つねに自分の目にふれる範囲に気を奪われているようであってはならない。目に見えない陰の分野で活躍している人たちに、こまかく心を配り、励ますことを忘れてはならない。これが戸田先生の指導であったし、私もつねに心がけてきたことである。――平1・2・14

◎学会を誹謗する人間たちは、自分自身には一個の人格としてなんの偉さもない。社会貢献の行動もない。大法弘通・広宣流布への功労もない。戸田先生への報恩もなければ、学会員への責任の奉仕もない。ただ彼らは、空っぽな自分を大きく見せかけるために、偉大な学会への非難を繰り返しているのである。学会員は、彼らの屈折した心を鋭く見ぬいていきたい。そして、批判されればされるほど、学会の偉大さがいっそう、光り輝くことを確信していきたい。真実は時とともに、明らかになっていく。これまでもそうであったし、これからもそうである。――平3・6・1

 

 

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役職について(2)

すべての会員が役職を持つ訳ではありませんが、役職があるとないとでは、成長の度合いが大きく違ってきます。役職を担うことによって信心が深まり、使命の自覚も進むからです。ただし、先生が仰っているように、役職は広宣流布を進め会員の幸福を実現するためのあくまで「手段=方便」です。厳しく言えば、もし仮に広布を前進させられない役職であったとしたら、無意味であるだけでなく、じゃまをしている場合もあるのです。幹部が学会に偉くしてもらいながら、自分の力で偉くなったと錯覚し傲慢になったり、あるいは民衆仏法という魂を忘れ、貴族仏教かまたは、悪しき特権階級に成り下がったとしたら、役職を設ける意味が無いです。

他にも、自分を飾るために役職を利用するのではなく、逆に自分の戦いで頂いた役職を輝かせていくのだ、とのご指導もあります。役職の数には限りがあるので、希望する人すべてが就ける訳ではありません。役職者として必要な資質や実績はもちろん、仕事の状況、健康状態等も、当然厳しく選考されます。いずれにしても、役職があろうと無かろうと同じ思いで戦い行動できてこそ本物です。役職が無ければ戦えないのだとしたら、どこかに人の評価を気にする打算的態度があるのではないでしょうか。

なかには、「希望した役職に就けなかったから」との理由で、活動を一切辞めた人がいます。人事の権限は上位役職の人たちが持っていますので、時には「これほど戦ってるのに上がらないのはなぜ?」と感じることがあるかもしれません。その傍で、とんとん拍子に上がっていく人を見ると、複雑な心境になることもあるでしょう。仮にそう思う時があったとしても、役職を理由に心が腐ったり信心を退いたとしたら、これほど愚かなことはないです。役職が信心の目的ではないのです。先の指導にもあるように、広布を進めるいち方便として役職があるのです。

あえて申せば、本当に役職に就きたいと思うなら、見事なる広布と折伏の成果・実績を上げ、人間としての人格・力量においても成長を強く志すのです。その結果として、「もうこの人に任せるしかない」とほとんどの人の見方が一致する戦いをしているなら、もはや、上位の人事権者が任命をためらう理由はないのです。何より我が命を懸けて広布の使命を果たそうとの決定した一念と行動があれば、役職は後からついてくるでしょう。極論すれば、全員が会長になる必要もなければ、逆に全員がブロック・地区幹部になる必要もない。学会の役職は会員のためにこそあります。したがって己が責任を真剣に果たしている役職者は、どの人も一人ひとりなくてはならない大切な存在なのです。

そもそも、役職は人間に「序列」を付けるものでは決してありません。役職が高いから人間として偉いのか、特別な人間なのか、そんなことはないのです。境智行位という法門で「仏法上の生命の位」が高いとしても、民衆に尽くしぬいてこその現代の力あるリーダーです。「リーダは民衆に仕える召使である」との意味もそこにあります。戸田第2代会長いわく、「出来の悪い人間(幹部)ほど威張っている」との指摘を胸に当てるべきです。役職は軽視してもいけませんが、絶対視してもいけないと思います。あらゆる角度から正視眼でとらえる必要があるのです。

 

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役職について(1)

6年前に書いた記事を元に、役職について考察します。

◆平成15年12月13日付、聖教 「海外・第2総東京代表協議会でのSGI会長のスピーチ」から

 広宣流布の役職を全うするなかで、自分自身の「境涯」が開かれる。

 広宣流布の責任を担って、粘り抜いた人間が、最後に勝つ。役職を軽視して、勝手気ままに生きる人は、一時は、いいようでも、大福運の道を自ら閉ざす。人生の最終章に苦しんでしまう。

 仏法に「境智行位【きょうちぎょうい】」という法門がある。「境」とは獲得すべき真理である。学会の役職にあてはめれば「果たすべき使命」といえよう。その使命を果たすために「智慧」を尽くし、「行動」を尽くしていく。そこに仏法上の生命の「位【くらい】」が連動している。

◆平成15年8月22日付、聖教 協議会での名誉会長のスピーチ

一、戸田先生に、ある青年部の幹部が聞いたことがある。「故郷に錦を飾るとは、どういうことでしょうか」

彼は社会的な名声が欲しかったのである。戸田先生は、その卑しい虚栄の心を見抜いて、厳しく叱られた。いくらお金をもうけても、社会的な名声を得ても、民衆を犠牲にする人間は悪党である。

戸田先生は折に触れて言われた。
「創価学会の幹部といえば、世界一の名誉だ。世界一の宝だ。学会は広宣流布を成し遂げる平和の団体である。その誇りをもって、故郷に帰ればいいのだ」
「学会の幹部として戦う。人のため、法のため、平和のために働いている。これほど尊いことはないじゃないか。仏法即社会であり、一番尊い社会的地位だ。それを卑下するような人間は、私の弟子ではない」

長身の先生が発する声は雷鳴のようだった。眼光も鋭い。邪悪を見抜く直感は天才的だった。学会の役職には永遠の功徳が光る。尊き同志の頭上に「幸福の宝冠」が輝きわたることは、御聖訓に照らして絶対に間違いない。

◆平成10年10月号 大百蓮華「法華経の智慧第45回 嘱累品より」

 根幹は、師匠対自分です。組織の機構や役職等は方便です。それをまちがうと、大変です。仏法という「師弟の世界」を壊して、官僚的な「形式の世界」にしてしまったら、大変なことになる。どんなに人知れず、陰で働いていても、師匠の指導通りにやっているならば、師弟相対は深い。それが外れていたら、どんなに華々しく行動していても、何にもならない。師弟の道を離れて、仏法はないのです。

(つづく)

 

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勝ってこそ歴史は作られる

27年前にわが町を初来訪された池田先生が、勤行会でスピーチされたご指導を、一部抜粋して紹介します。

 

 

勝ってこそ歴史は作られる

”仏法は勝負”であり、「勝つ」ことが正法の証明となる。また、勝ってこそ新しい「歴史」はつくられる。負け戦では道は開けない。負けることは、みじめである。都落ちし、壇ノ浦へと転落していく平家の哀れさ、悲惨さ。清盛なく、重盛【しげもり】なく、一族の柱を失ったあとで、だれも「勝てる将」がいない。そうした状況を描いた、あるドラマでは、一人の母親が、息子のふがいなさに、「お前をこんなに勇気のない人間に育てた覚えはない」と嘆くシーンもあった。しかし嘆いても、取り返しがつかない。

「勝つ」ことが、自分のみならず、一家・一族、周囲の幸福につながる。広布の前進においても、大法のため、大切な仏子のために、何としても勝ち抜いていかねばならない。火花を散らすような峻厳なる攻防戦を勝利せずして、どんなに活躍している格好を見せても、もはや遊戯にすぎない。「進んでいる」のではなく「踊っている」だけである。特に青年部に、このことを強く言っておきたい。生まれてきた以上、何の歴史も残さないで死んでいくのでは、寂しい。どうか皆さま方は、自分としての何らかの「勝利の実証」を、この人生で、晴れやかに、誇らかに示していっていただきたい。

永遠の金字塔を

もちろん「勝利」といっても、人生には、さまざまな段階がある。また、今は、苦闘のさなかの方もいらっしゃるにちがいない。それでよいのである。大切なのは「最後に勝つ」ことである。そのために、信心を貫くことである。野球も9回まである。途中までは、さまざまな明暗のドラマがある。途中の回まで、どんな姿であっても、9回の裏を終わった時にどうかが、すべてである。学校も小学校、中学校、高校、大学とある。途中までの成績も大切かもしれないが、やはり大学を卒業した時点での実力が、学びの時代の総決算となる。

そして私どもにとって、「最後の勝利」とは、一生成仏であり、広宣流布である。悪世での正法流布を誓って生まれた久遠の同志、御本仏の仏子の軍勢が、どこまで進むことができるか。我が地域に、どこまで妙法の不落の砦を築くかの戦いである。個人も、団体も、国家の盛衰も長い目で見なければわからない。そして私たちは、常に最終の勝利のために、根本の「勝つ原因」を日々、つくっているのである。ゆえに、私どもにとっては途中の一切が「幸福のこやし」になる。何ひとつ無駄はない。妙法は円教であり、「闕減(けつげん=欠けるところ)」がないのである。このことを確信していくのが信心の信心たる証である。

――抜粋ここまで――

 

ちょうどこの時、自分は初の折伏を決めた後に、職場でのいじめを受けたこと等により体調を崩し、帰郷後、遠方の病院に入院を余儀なくされていました。病院内で取っていた聖教で先生の御来苫を知りました。実は、神奈川から北海道へUターンする時に、私が折伏した友人から、「レオさんは、まるで都落ちですね」と言われたこともありました。理解されない悲しさが一瞬心に浮かびましたが、誰が何を言おうと断じて負けない! との強い思いだけはありました。私が難を受けたことにより、創価の道を歩み始めた友人も、難の余波をかぶることになり複雑な思いをさせたかもしれません。

ともかく、この時、人生最大のピンチにあった自分でしたが、このご指導を読んで、あたかも自分に頂いたご指導のような感を強くしました。例え、こと細かく自分のことを報告する人が1人もいなくても、「先生はすべて解ってくださっている」との感動を深くしました。ある意味、ここから我が人生の反転攻勢が始まる起点となりました。今に至るまで、度々、拝読し直して心に刻んでいます。人生の苦難に直面し、あまりにも孤独な戦いを強いられる時もあるかもしれない。しかしどんなに孤軍奮闘の渦中であったとしても、先生の一念に包まれて戦えていることを忘れてならないのです。

 

 

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十四誹謗は功徳を消してしまう

・説明できることと、そのことを体現していることは大きな違いがある。

・説明できることと、実践していることは全く違う。

・言葉のやり取りだけが「声仏事をなす」のではない。相手を傷つけようとの心ない言葉が、仏の仕事であるはずがない。

・十四誹謗は厳に戒めていきたい。同志を謗【そし】ることは、魔に負けた姿であり、結局は自分を傷つけるのと同じであるからだ。

 

最近思ったことを箇条書きにしてみました。この十四誹謗はなかなかの曲者です。自分もちょっと油断すると、同志を悪く言う命が出てきます。常に、自分で自分を戒めていきたいと思います。次に、十四誹謗について、先生が指導された内容を紹介します。

 

■池田SGI会長の指導から

 日蓮大聖人は、松野殿が質問された「聖人が唱えられる題目と、私たちが唱える題目と、その功徳に違いがあるのでしょうか」(御書1381ページ)との疑問に対して、「違いはない」(同)とされたうえで、「ただし、法華経の心にそむいて唱えれば違いが出てくる」(1382ページ)と教えられている。
 その「法華経の心にそむく」ことを、具体的に述べたのが十四誹謗である。いいかえれば、十四誹謗がなければ、唱題の功徳は同じであり、計り知れないと述べられているのである。

 「松野殿御返事」では、妙楽大師の『法華文句記』の次の文を引かれて、十四誹謗を明かされている。
 「悪因には十四の謗法がある。一に驕慢【きょうまん】、二に懈怠【けたい】、三に計我【けいが】、四に浅識【せんしき】、五に著欲【ちゃくよく】、六に不解【ふげ】、七に不信、八に顰蹙【ひんしゅく】、九に疑惑、十に誹謗【ひぼう】、十一に軽善【きょうぜん】、十二に憎善【ぞうぜん】、十三に嫉善【しつぜん】、十四に恨善【こんぜん】である」(同)と。

 この『法華経文句記』の文は、「法華経譬喩品」の「若【も】し人は信ぜずして 此【こ】の経を毀謗【きぼう】せば 則【すなわ】ち一切世間の 仏種を断ぜん」(法華経198ページ)との有名な文を含む一節を釈したものである。法華経、すなわち「正法」への誹謗と、「正法を信じ行ずる者」への誹謗が、ともに地獄の因となることを明かしている。―――1990・12・3

           ※

 必ず所願満足の人生、永遠なる幸福境涯を、自然のうちに会得していけるのが、妙法の功徳なのである。しかし、その功徳も、信心いかんにかかっている。日蓮大聖人も「どのように法華経を信じていても、謗法があれば必ず地獄に堕ちる。それは、千杯の漆【うるし】にカニの足を一つ入れて、漆をだめにしてしまうようなものである」(1056ページ)と仰せである。どんなに真剣に、まじめに信心しているようであっても、謗法があれば、すべての功徳を消してしまう。それは、わずかの青酸カリでたちまち死んでしまうようなものである。

 御書には、悪の因をつくるものとして、十四の誹謗が挙げられているが、そのなかに「軽善【きょうぜん】」(1382ページ)、「憎善【ぞうぜん】」(同)、「嫉善【しつぜん】」(同)、「恨善【こんぜん】」(同)がある。信心している人を「軽んじ」「憎み」「ねたみ」「恨む」ことが、それにあたる。
 懸命に、これほど信心をしているのに、功徳が感じられないという場合が、あるかもしれない。そのときは、この四つの誹謗がないかどうかを、自分に問うてみていただきたい。軽善、憎善、嫉善、恨善の人は、自分で自分の功徳を消してしまうからである。

 もちろん、同志に対しても、言うべきことをきちんと言っていくことは自由であるし、当然、必要なことである。しかし、相手を思って厳しく言うことと、憎しみの心や恨みの言葉は同じではない。その点はよくよく見きわめていかねばならない。御本尊のもとに集い、広宣流布に進んでいる私どもは、すべてが仏子であり、“妙法の家族”である。―――1990・2・20

 《『輝きの人間世紀へ ~御書とその心』のp.107~108/池田大作著/聖教新聞社》

 

 

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