煩悩即菩提(1)

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この写真は釈尊が悟りを得る前に、当時の修行の主流であった苦行をしていた姿である。
生きながらのミイラにでもなったかのような、痛ましい姿である。

釈尊はその徹底した苦行の果てに、死の淵【ふち】をさまようが、河のほとりに瀕死の姿で横たわっていたところ、少女から粥【かゆ】を飲ませてもらい、命を取りとめる。
そして菩提樹の下で瞑想に入り、やがて悟りを得ていく。

灰身滅智【けしんめっち】という言葉はご存知だと思う。
法華経以前の教えにおいて、二乗が目指した理想の境地である。

四苦八苦と言われる諸々の苦悩は突き詰めると、我々の生命に煩悩がある故に、一切の苦悩が生じると見るのである。
それゆえ、様々な欲望すなわち煩悩を断じ尽くせば、あらゆる苦悩からも解放され、理想の境地に到達できるとしたのである。

ところがこの灰身滅智を徹底すれば、心身に苦痛を与え続け、やがて文字通り死をもってしかその境地に達しえないことになる。
究極は自己の生命を断つことをしなければ、煩悩は断じることができず、苦悩からの解放もないことになる。
それゆえ、生きながら土中に自らを生めてミイラとなったり、火で我が身を焼き尽くしたり、水中で窒息したり、心身にあらゆる苦痛を与えたりといった、難行・苦行を行じるのである。

しかし、煩悩は生きるエネルギーでもあり、上手にコントロールすれば、向上心などの源ともなり、人間がより良く生きるためにも、幸福であるためにも欠かせないのが、欲望であるという見方もできる。
しかし人間は、賢いようでいて愚かな面が強く、欲望ゆえに身を滅ぼし、大苦に落ち込むことが多いのが現実であるとも言える。

釈尊は苦行の果てに、苦行を捨てることを自ら選ぶ。
真の悟りを得るためには、苦行では無理であることに気づいたのである。

(次回へつづく)

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