三障四魔とはご存じの通り合計7つの障魔です。
煩悩障
業障
報障
煩悩魔
陰魔
死魔
天子魔
この中に「死魔」というのがあります。
これは法華経実践者自身が命を絶たれて、仏道修行が出来なくなる障魔です。
第六天の魔王が手下を使ってあらゆる障害を為して、信心を退転させようとするのですが、それらを一切寄せつけないので、今度は命そのものを狙ってくる、のが死魔です。
そして死魔のもう1つの側面は、学会員の不慮の死などによって、それを見た学会員が動揺し、信心が揺らいで退転させようと図る場合があります。
つまり、文字通り自身の命が絶たれる場合と、人の死を見て信心を妨げられる場合の2通りがあるのです。
人の死を悼む心情も、自分の死への恐怖も、人間として誰もが普通に持っている自然な感情です。
御書の随所に大聖人は、身内を亡くした門下に、これほどまでにという位、同苦の限りを尽くし励ましを送られています。
死を恐れ回避することにより、私たちは命を守り生存し続けていけます。
誰しもいずれは死が避けられず、死後も続く生命の永遠性を、意識するとしないとに関わらず信じているからこそ、今世の今の瞬間の生を充実させようと努力します。
死から目を背けて覆い隠したり、いたずらに忌避し恐れるだけであれば、人生を消極的にし様々な問題や悪徳さえ生み出してしまう恐れがあるのです。
戦争や生命軽視といった現代の病弊【びょうへい】の根っこには、死から目をそむけ真正面から取り組んでこなかったことに原因があると、池田先生は仰っています。
御書にも、
「まず臨終のことを習った後に他事を習うべきである」
とのご指南もあります。
「臨終正念」「臨終只今」の他に、先生がハーバード大学で講演された「生も歓喜、死も歓喜」という日蓮仏法による画期的な智慧をご指導されています。
創価の信心を貫いて亡くなった方々は、どのような亡くなり方であったとしても、1人も残らず最高の常楽我浄の仏の境涯を三世にわたって開いていくことができるのです。
そして題目の光は、例え地獄界であったとしても、届かない所は無い、という絶対の力があります。
信心しているかしていないかに関わらず、亡くなったあらゆる方々に廻向し供養する、唯一最高の正しい方法が、創価の南無妙法蓮華経の題目なのです。
「三障四魔と申す障り出で来れば、賢者は喜び愚者は退く、これなり」
とのご指南の通り、死魔をも恐れず粉砕・克服していく勇気と賢さ漲【みなぎ】る信心を、改めて銘記していきましょう。
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コメント
同じ牙城会の同志・友人であるF君のお母さんが昨日の夜、お亡くなりになりました。
3月9日にF君からお母さんが危険な状態だと聴いて以来、地域の皆と絶対完治を祈ってきました。
自分自身も骨折で入院した時、たくさんの同志の皆様に支えていただいた経験があり、今度は自分の祈りと行動で、F君のお母さんを救っていきたかったのです。
F君のお母さんに宛てた寄せ書きも提案・用意させていただき、これも地域の皆様の協力で完成。
昨日、お母さんの元に、F君と牙城会大学校時代の団長が届けてくれました。
眠っていて目を通していただける事は出来なかったようですが、無事にそばに届いて良かったです。
自分自身、F君のお母さんがお亡くなりになられた時、混乱しました。
なぜ、諸天は守ってくださらなかったのかと怒りに震えました。
とにかく、祈って答えを出すしかないと、御冥福を祈らせていただいたのです。
今朝になって、私の母にも報告した事でか涙が止まらなくなって、死魔とはいったいなんなんや!と、御書を探したい思いで、ここに辿り着きました。
冒頭の、「(障害を)一切寄せつけないので、今度は命そのものを狙ってくる」。
F君のお母さんは入会はされておりますが、二世でか未活動であったとF君から聞いてました。
しかし、私はこの一文を読んで、F君のお母さんは見えないところで、活動されていたのかなと思いました。
それによって今世の使命を果たしたのだと感じました。
もう一つ、「学会員の不慮の死などによって、それを見た学会員が動揺し、信心が揺らいで退転させようと図る」。
まさしく、私やF君が気をつけねばならない点だと思い知りました。
すぐさま、F君にもこの記事を読んでほしいと連絡致しました。
この記事を書きとどめてくださり、本当にありがとうございます。
インターネット上では、その匿名性を利用して、批判が吹き荒れる可能性が付いて回るというのに、すごい勇気だと痛感しました。
それと共に、偉大な慈悲がなせる行動だと思いました。
あなたもこれからの困難を絶対に笑顔で乗り越えていかれる事を御祈念申し上げます。
櫛さん、こんばんは。
牙城会同志のお母様のご冥福をお祈りします。
身近な人の死は本当に悲しいことであり、なぜ死ななければならないのかとの怒りにも似た気持ちになったのも、櫛さんの友を思う強い心からであり、ご友人の深い喪失感をお察しします。
いまはその死を心から悼【いた】み故人を偲【しの】ぶ時だと思います。
若くしてお母さんと別れることになった友人さんは、とくに周りが安易に励ますなどは憚【はばか】られますし、寄り添う気遣いが必要でもありましょう。
「生きておられた時は生【せい】の仏、今は死の仏、生死ともに仏である。
即身成仏という大事な法門とは、このことである」
(1504ページ、通解)
生と死は生命に本来具わる理【ことわり】です。
本来、死は恐れ悲しむべきものではありません。
死は単なる終わりではない、生命は永遠です。
「あなたは余念なく、昼に夜に、朝に夕に、南無妙法蓮華経と唱えて、最後の臨終の時をごらんなさい。
妙覚の山に走り登り、四方をご覧なさい。
法界(全宇宙)は寂光土であり、大地は瑠璃【るり】でできていて、黄金の縄で八つの道をしきり、天からは四種類の花がふり、空中に美しい音楽が聞こえ、諸仏・菩薩は皆、常楽我浄の四徳【しとく】の風にそよめかれている。
われらも、必ずその仏・菩薩の列に連なるであろう」
(1388ページ、通解)
妙法に包まれた死はかくも安心に包まれた荘厳な死であると、御本仏がご断言されています。
時が来れば、また新しい生命を得て新しい身心で、この世に生まれてくることができます。
広布の舞台に、身近な存在として生まれてくることもあると聞きます。
あとは残された遺族の方々が、信心根本に幸福になっていくことが、故人への最高の供養になるとの確信で進みゆかれますことを、ご祈念致します。
櫛さんの友情の深さと同志を思う真心に感銘しています。
これからも共に良き友として、成長の節目を刻んでいってください。