念仏無間地獄(4)

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ではここから彼らの邪義を破折していきたい。
まず、念仏も同じ釈尊が説いた仏説ではあるけれども、あくまで方便の教えに過ぎないこと。
釈尊の出世の本懐は法華経以外にないことを、家を建てる時の足場(ここでは足代【あししろ】と表現している)を方便に譬えてご教示されたのが、次の御文である。

此の四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず
三世諸仏出世の本懐にも非ず、唯暫【ただ・しばら】く衆生誘引の方便なり。

譬えば塔をくむに足代をゆ(結)ふが如し、念仏は足代なり、法華は宝塔なり、
法華を説給までの方便なり、法華の塔を説給て後は念仏の足代をば切り捨べきなり、

然るに法華経を説き給うて後念仏に執著するは、塔をくみ立て後足代に著して塔を用【もちい】ざる人の如し、
豈違背【あに・いはい】の咎無【とが・な】からんや、

然【しか】れば法華の序分 ・無量義経には、四十余年未顕真実と説給て、念仏の法門を打破り給う、
正宗法華経には正直捨方便・但説無上道と宣べ給て念仏三昧を捨て給う、

之に依て阿弥陀経の対告衆 長老・舎利弗尊者・阿弥陀経を打捨て法華経に帰伏して華光如来と成り畢【おわ】んぬ、
(御書p.98)

家を建てるために足場を組みますが、いったん家が完成してしまえば足場にもう用はありません。
家に住まい使うためには、足場は却って邪魔にさえなります。
ですから足場は撤去して使わないのが正しいあり方です。

あくまで念仏は方便の教え(足場)であり、法華経を説くための準備であり、機根を整え、法華経の入り口まで導く役目だったのです。
ですから法華経が説かれた後は、念仏等の権教に執着してはならないのです。
あろうことか方便の教えに執着して、法華経を誹謗することの愚が、これにより明らかです。

御文の後半では、阿弥陀経が説かれた時の対告衆であった舎利弗は、正直に方便の念仏を捨てて法華経により、華光如来という仏になったのです。
このことに関連して、御書の他の御文には、阿弥陀如来自身の成仏についても言及されています。

それは阿弥陀如来自身も念仏により成仏したのでなく、法華経により成仏したのです。
三世十方のあらゆる仏を成仏させた根本の種子は、法華経なかんずく南無妙法蓮華経なのです。

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