悪と戦え! -指導集(3)

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●紙上座談会から(‘08年7月31日付)

 原田 一切は「師匠に対する姿勢」に表れる。
 退転する連中は、どいつもこいつも「恩知らず」だ。私利私欲に狂い、師匠の大恩を忘れ、師の偉大さに嫉妬する。そこから転落していく。
 正木 そのうえで、大聖人は恩知らずの裏切り者の本質を、鋭く見抜かれた。
 「よくふかく・心おくびやうに・愚癡にして・而【しか】も智者となのりし・やつばらなり」と喝破されている。
 三井 要するに「強欲」「臆病」「愚癡」「傲慢」ですね。
 正木 ①強欲! 金、酒、女に狂い、遊び狂って信心を失う連中だ。
 西山 ②臆病! 広宣流布の戦【いくさ】から逃げ回る卑劣なやつらだ。何かと屁理屈をこねて、折伏をしない。勤行をしない。学会活動をしない。
 総じて勇気がない。いるだけ足手まといの連中だ。

 派閥を作る輩

 原田 ③愚癡! 愚か者で、まんまと敵に騙【だま】され、操られ、踊らされる輩だ。
 こういう連中は、正しい学会指導を聞かず、勝手な派閥を作る。我見で組織を撹乱【かくらん】する。
 正木 そして④傲慢!
 師匠と学会のおかげで偉くしてもらいながら、恩を忘れ「自分は特別」と思い上がるやつらだ。
 そういう人間ほど、根が卑しい。虚栄、虚飾。自分を偉く見せようと、己を飾りたがる。
 笈入 学歴詐称の大ウソをついて「勲1等」をぶら下げ、有頂天になっていた男もいたな。
 原田 大聖人は「大慢のものは敵に随う」と厳しく仰せであられる。
 大恩を仇で返すばかりか、敵に寝返る。「城者として城を破る」ようになる。
 西山 だが、裏切り者の末路は、みな無残だ。
 戸田先生が「退転者は、不思議と、その堕地獄の姿を見せにくる」と断言なさった通りじゃないか。
 原田 戸田先生は、こうも厳しく語っておられた。
 “退転者が惨めな姿を世間に晒【さら】していくのは、いかに仏罰が恐ろしいかを、その姿で証明するためだ”と明言しておられた。
 正木 仏法の因果は厳しい。御書に「師子をほうれば腸【はらわた】くさる」と仰せの通りだ。
 原田 なによりも仏意仏勅の創価学会を追放されるということが、どれほど恐ろしいか。
 戸田先生が“学会を追放されるほど、恐ろしい、可哀想なことはない”と明確におっしゃった通りだ。

●名字の言から(‘08年8月18日付)

▼信長は、この直後、佐久間父子を遠国に“追放”した。勝った末の重臣への処分に、皆が驚いた。信長が自ら筆を執【と】って父子に書き送った「折檻状【せっかんじょう】」には、その理由が記されている。
▼例えば、5年間も在陣していながら何ら成果を出せなかった。相手を大敵だからと攻撃しなかった。守りさえ堅固ならば、いずれ敵は屈服すると安易に構えていた。同志の戦う姿に触れても奮起できなかった。戦況について一度も信長に報告や相談がなかった。そのくせ自分の蓄財だけは怠らなかった――等。怒りに震えながら信長が綴った“罪状”は、19条にも及んだ。
▼戦場に“居る”ことと、“戦う”ことは違う。惰性や慢心や臆病を排し、勝利に向かって勇敢に前進しようとしてこそ、本物の戦いと言えよう。
▼御書に「仏法と申すは勝負をさきとし」(1165㌻)と。私たちの広宣流布の活動も、友の幸福を願い、仏縁を広げる“戦い”だ。さあ、常在戦場の気概で、下半期も楽しく、友好の対話を拡大していこう!

●体験のページ、に引用された池田先生の言葉から(‘08年8月21日付)

 いくら泣き言を言い、運命を嘆いても始まらない。心強く生きる人が本当の幸福をつかむことができるのです。朝の来ない夜はありません。

●名誉会長のスピーチから(‘08年8月3日付)

法を壊す悪と戦う人が菩薩

一、天台大師の師匠である南岳大師の言葉に、こうある。
「もし菩薩がいて、悪人をかばって、その罪を罰することができず、そのために悪を増長させ、善人を悩乱させて正法を破壊させるならば、その人は、じつは菩薩ではない」(御書1374㌻、通解)
正法は全人類を幸福に導く。悪人は、その法を破壊する。
悪と戦ってこそ、菩薩なのである。
正義の師弟を貫くのは、「破折の精神」「折伏の精神」「広宣流布の精神」にほかならない。

ドイツの哲学者カントは喝破した。
「陰険な人間、それは思いやりがなく、冷酷で、人を傷つけて喜ぶ人間である」(『カント全集15』、岩波書店)
同じくドイツの詩人シラーは、「卑劣な人間がいるところ、嘘と陰謀がはびこる」と綴っている(戯曲「ヴァレンシュタイン」)。
戦おう! 正義を守るために。邪悪を打ち破らなければ、いい人材は育たない。

「清浄な創価学会の組織を撹乱【かくらん】する者を追放せよ」
これが、戸田先生の厳命であった。

また、牧口先生は、人事について「親分子分だけの関係で人事をやってはいけない」と戒められたという。
そういう人事は、結局、うまくいかないものだ。皆からも支持されない。
広布のための組織である。決して公私混同してはいけない。

(中略)
戸田先生は語られた。
「社会の不幸に目をつぶって、宗教の世界に閉じこもり、安閑【あんかん】とただ題目を唱えているだけなら、大聖人の立正安国の御精神に反している。
この世の悲惨をなくす。不幸をなくす。人権を、人間の尊厳を守る。平和な社会を築いていく。そのなかにこそ、仏法の実践があるのだ」と。
この「戦う心」を忘れ去ったのが、日顕宗である。

「民衆に慕われながら、民衆の生活の中に飛び込んで広宣流布していくんだ」と、率先して陣頭指揮をとられる戸田先生だった。
先生は、こうも言われた。
「権威なんか恐れることはない。だれ人たりとも恐れる必要はない。
権威を恐れていては民主主義が破壊される。それでは民衆が、かわいそうではないか。あくまで主権在民である」と。
どこまでも、民衆が強くなるため、民衆が賢くなるための学会活動である。最高幹部は心しなければならない。

●随筆 人間世紀の光 137 から

蓮祖大聖人の御一代の主戦場は、いずこであったか。

それは、東海道の天地である。

修羅闘諍の鎌倉時代――。
本来、民を救うべき坊主は、貴族の都の繁華に逃れて、安逸を貪っていた。都での分け前よりも多くを望んだ坊主は、幕府におもねり、鎌倉の大伽藍に庇護を求めた。
ただ己の我欲と保身のみであった。爛れた虚栄の軟風に侵された「京なめり」の腐敗と堕落でさえ、大聖人は痛烈に破折なされた。

不幸に喘ぐ民衆を救わずして、何が宗教だ!

苦悩の渦巻く社会の現実を変えずして、何が仏法だ! 法華経の魂は、腐りきった坊主の魔窟になど絶対にない。断じてない。

アメリカの人権の闘士キング博士は、人間の魂を脅かす社会悪に挑もうとしない宗教は「精神的に死にかかった宗教」であると、厳しくも断定している。


仏法の真髄とは何か。

民衆のなかへ飛び込むことだ!
人間のなかへ、社会のなかへ飛び込み、現実変革の怒濤を起こしゆくことだ!
この日蓮仏法の究極の実践者こそ、創価学会である。

 

 


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