学会二世と福子

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標題は便宜上「学会二世と福子」としましたが、二世に限らず三世、四世・・・の人、或いは福子の人の信心について考えてみようと思います。

かく言う私も、父母は学会員ですし、すでに故人ですが母方の祖父母も信心していましたので、学会三世です。
福子については、母は昭和32年と入会が古いのですが、父は私が生まれた翌年の入会なので、厳密には半分福子とでも言えましょうか。

私が成人して、北海道から神奈川へ1人暮らしを始めた時、そちらの組織で大変にお世話になったのですが、壮年・婦人の中には、次のようなことを言う人がいました。

「学会二世(三世)は体験が無いんだよね」
「学会二世は親の信心に護られているんだよ」

私はこうした言葉がとても気になった記憶があります。
「二世は本当に苦労して信心した訳でないから、いざという時、確信が弱い」
といったことも言われました。
悪いこともしていないのに、何か自分に欠陥があるかのようで、わだかまりが残りました。

学生時代の仏法対話の功徳だったのですが、神奈川では一流大企業のエンジニアとして歩み始めた頃でした。
そのある意味で、それまでの信心・生活にわたる努力を、否定されたようで、不快に思ったのは事実です。

「体験が無いというなら、ようし、凄い体験を積もう」
「人がしたことのないような苦労をして、乗り越えてやろう」
と、今にして思えば、それまでとは全く違う方向に動機付けられたのも事実でした。

一面から考えてみれば、若い内から世間的に恵まれた境遇にあったことに、そう言った人のやっかみ、つまり嫉妬が背景にあったのかも知れません。
先生が言われていますが、嫉妬する方と嫉妬される方とでは、嫉妬されるほうが上なのです。(趣意)
そうであるのに、嫉妬された自分が悪いかのように取ってしまった私が、未熟であったとも言えます。

とは言うものの、学会に特別扱いの人間など必要ありませんし、世法の立場等を信心の世界に持ち込むべきではありません。
また、若い時からチヤホヤされれば、甘やかされた人間となり、年配になって苦しむのは本人です。
或いは、人の言葉をそのように捉えた私自身が、考え過ぎというか、単にひねくれていただけかもしれません。
その意味では、いち青年にかけてくれた厳しくも温かい、鍛えの言葉だったのかもしれません。

それはともかく、若い内は人間が成熟もしていないのに、周りから何かと期待される場合があります。
本当の苦労の山坂を越えて来た訳でもないのに、大きなチャンスに恵まれる場合もあります。
「出る釘は打たれる」ということもあるでしょう。

そうした「期待」と逆に「厳しい目」が交錯する中で、これからの学会の後継者として心に留めるべきことを何点か挙げてみたい。
第一に、苦労は自分をつくってくれる財産だということです。
自分を鍛錬する場に、自ら進んで身を置くことが、偉大なる自分をつくってくれます。
その鍛錬の最たるものが「折伏」です。
先生の指導にも、青年は何よりも「折伏力」を身に付けるべきであると仰せです。

第二に、人生の先輩やお世話になった方々への、感謝の心と言動が大事です。
学会指導に次のようにあります。
「不平や愚癡は、すでに持っている福運まで消してしまう」(趣意)

つまり今の自分を育んでくれた、全ての存在に深い感謝の振る舞いができるかどうかが大事なのです。
どんな分野でも、傲慢は敗北の因です。
ですから、感謝できることが、自分の運命を良い方向に無眼に開いていく源なのです。

第三に、情熱と挑戦の心こそが若者の特権です。
その意味では、何があってもへこたれず、自分を成長させる滋養と捉え、前進していってほしい。
「もうダメだ。もう立ち直れない」ともし自分が思ったとしても、時が経てば、いつか笑って振り返ることのできる日が来るものです。
それまで忍耐に忍耐を重ねることが必要な時があるのです。

第四に、これら一切を自然に実行し、過ちなき人生を開いていくために、題目根本の人であってもらいたい。
唱題の人には誰も敵【かな】いません。
どんな障魔にも打ち勝つことができる源泉が題目です。
どれだけ素晴らしい学会指導を見聞きしても、唱題に徹しなければ、それらを正しく実践することはできません。
そのためにも、正しく自行化他の題目を指導してくれる学会活動に、徹して求道心を奮い起こして参加していくことが重要です。

青少年、なかんずく学会っ子こそ人類の希望です。
師子の子らしく大成していってもらいたいというのが、みんなの願いです。
(平27.5.19修正)

 

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コメント

  1. 東京の壮年部 より:

    「学会二世(三世)は体験が無いんだよね」
    「学会二世は親の信心に護られているんだよ」
    ↑昔の婦人部から私も似たような言葉を言われた事があります
    私は学会2世ではありませんが、母と共に5歳の時に入信しました
    その時は何が何だかわからない状態ですのでほぼ2世のような感じですか
    何せ私が駆けだしの20歳頃の当時の婦人部や壮年部は言うことが厳しかった!
    婦人部はあからさまに
    「私達の方が苦労しているのだから男子部は言う事を聞かなきゃ!とか私達の方が何倍もあなた達より長く生きているのだから」
    と良く言われました
    そんな感じだったので協議会や座談会に行くのが怖かったのを覚えています

    こんな話を聞いて事があります
    今の青年部は殆どが学会2世でなく、3世、4世、5世が中心で青年部を引っ張っている
    ましてや池田先生に直接会って指導を受けた青年部はそんなに多くはいない
    けれどもみんな池田先生を師匠として違和感なく受け止める事が出来ている、ましてや海外の青年部は会った事もなければ見た事もないメンバーがものすごい力を発揮している
    ということはものすごい福運を持ってこの世に生れてきている
    このメンバーこそが学会を永遠に発展させゆく大、大人材ではないかと

    この話を聞いて私自身の感想というか勝手に思った事は
    正法時代、釈尊に直接指導を受けた正法時代の民衆が牧口門下、戸田門下、そして池田門下の草創の頃の学会の大先輩方達ではないか
    そして像法時代にあたるのが私のような親は直接池田先生に指導を受けた事があるがその親の子供は親の信心で何とか活動していた世代で
    その子供が末法の民衆にあたる3世とか、4世なのかなと
    勝手な解釈をしています
    3世、4世は池田先生から直に指導を受けなくても学会に触れているだけでスムーズに活動に入れる世代(簡単ではありませんが・・)
    なのかなぁと
    草創の方達の生まれ代わりが3世、4世なのではと勝手な解釈でした

  2. Leo2014 より:

    東京の壮年部さん、だいぶ日数が空いてしまいました。
    5歳の時に入信された2世だったのですね。
    昔の壮婦は確かに言うことが厳しい人も多かったですね。
    会合に行くのが怖かった時があったというのは、分かる気がします。

    正法・像法・末法の三時の話は、時空を超えた生命論・師弟論としてみても面白い見方ですね。

    像法時代の人師たちが、南無妙法蓮華経の大法が広宣流布する時である末法に生まれたかったと、恋い焦がれる気持ちを表現した言葉が、御書には何カ所もありますね。
    師匠と直接お会いすることも大事ですが、例え会えなかったとしても、師の指導の通りに実践する人の方が偉大と仰ってました。
    これらは東京の壮年部さんのお話とは少し離れた論点ですけれど。

    2世~5世と福子に戻りますが、持って生まれた福運ということでは、確かに1世の人達に比べて元々、福運豊かだと言える部分が多いですね。
    その反面、本当の苦労に裏打ちされた確信が弱く、体験も少ない、と言えると思います。

    苦労知らずという意味では、競争の激しい現実社会を生き抜く上で、精神力が弱かったりお人好しだったりすれば、世間の荒波の前には潰されてしまいかねません。
    温室育ちの草花が弱いように、鍛錬が無く、挫折の経験もしないと、何かあった時に脆【もろ】いです。
    自ら進んで雨風に身をさらし、世間でも学会でも訓練を受けることが大事ですね。

    また、最初から恵まれた境遇を鼻にかける気持ちが少しでもあれば、本当の実力が未だ伴っていないだけに、周りから苛めや圧迫を受け潰されたり弾き出されたりしかねません。
    若さというのは、ある意味で「怖いもの知らず」であるとか、己の「限界を知らない」ということなので、それが良さでもあり逆に危なっかしい面でもある訳です。

  3. 廣島秀昭 より:

    なんとなくこのブログに辿り着きました。学会二世で4人の子供がいますが4人とも未活です。随分悩みました。子供らに勤行を教えた事も数回です。私が男子部の時は夜中の1、2時頃まで活動をやる事も多々あり創価班や栄光会、選挙の遊説隊等、宿命を転換するために何でも最前線でやって来たつもりです。貧乏のどん底の中、食べるものにも事欠く有様で妻にも苦労をかけました。日曜日もクリスマス(邪宗の化儀ですが笑)も正月も(新年勤行会の担当の為)家に入れた事はなく4人の子供達の運動会にも一度も出れた事はありません。ボロ雑巾のように疲れて帰って来て子供らの寝顔を見るのが唯一の気の休まる時でした。ある日、指導を受けると
    「心配する事はないよ。今、君の育てている後輩、そのまた後輩が君の子供らをきっと御本尊に、先生に繋げてくれる。だから心配ないよ」
    と先輩幹部は言って下さりました。
    壮年に移行する直前に騙され、家も差押えられ自己破産をしました。
    それでも懸命に信心と仕事に励み、思ってもいない大功徳に恵まれ、会社を興してお金に不自由しなくなる境涯になり10年。活動者会で青年部が
    「二世、三世は親がきちんと指導してないからダメだよな」
    と言う言葉を聞き激しい怒りで声を出すのを懸命に抑えました。
    【お前らがやってくれると思って安心して家をあけたんだ!】
    志し半端で亡くなった同志達の顔を思い悲しくて悔しくてたまりません。栄光会の同期で寝不足のためにエレベーターピットに落ちて24歳で死んだ同志の顔も浮かび…
    最近の祈りはやるせない悔しさの中にあります。
    乱文失礼します。何を書いたら良いかわからなくなりました。

  4. Leo2014 より:

    廣島秀昭さん、返事が大変遅れスミマセン。最近、世界青年部総会に加え、本幹の北海道開催も控え、題目をさらに約2倍の時間に伸ばし、仕事も決算期で多忙を極めています。

    ボロ雑巾のように疲れ果てとの表現もありましたが、学会への献身的行動を日夜本当に有難うございます。お子さんは親が何を語らなくとも、廣島さんの行動を見てくれていますよ! 平等に与えられた24時間をどう使うか。池田先生もあの激務のなか、お子さんとの時間を大切にされていたと読んだことがあります。

    活動が忙しいからと、全面的に人を頼り過ぎるのはいかがでしょうか。厳しく言えばその一念に、魔がつけ込むスキを与えてはならないと思います。若くして事故死した同志についても、無理と強信【ごうしん】は違います。身近で共に戦った同志であるならなおさら、その不慮の死を悲しむ気持ちは痛いほど分かります。その上で、無理な戦いをすることが信心強盛と思ったら大きな間違いです。上手に疲れを取ることも信心の戦いですし、部員さんに無理をさせないことも幹部の努めだと思います。自分はそう思いました。

    少年部支部責任者でしたが10年間徹して勤めさせて頂きました。毎回、主な婦人部等と打ち合わせを持ち、数十人の少年部員を訪問、担当幹部もお願いしある意味、まるで座談会を行なうように労力・手間を惜しみませんでした。10年間に真面目に何百回行なったか知れないほどです。10年間の総決算として先生に文集もお届けしました。今ではその中から、県女子部長、支部男子部長、創価学園卒業生など誕生しています。池田先生を1番とした連番が打たれた「二十一世紀使命会」の押印を頂いたのも金の思い出です。

    人を育てるには時間と労力を惜しんではならず、人任せなど問題外だと思いますが、ギリギリの戦いをしている親からみれば、相当に困難なことなのでしょうね。そこに挑戦するからこそ、人間革命があり大歓喜もあるのでしょうね。ご健闘を祈ります。