転重軽受(1)

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今年行われた青年教学試験2級の範囲でもあった『開目抄』に、次の部分がある。章の題名は「第46段 転重軽受を明かす」の御文である。

我れ無始よりこのかた悪王と生れて法華経の行者の衣食・田畠等を奪いとりせしこと・かずしらず、
当世・日本国の諸人の法華経の山寺をたう(倒)すがごとし、
又法華経の行者の頚(くび)を刎(はねる)こと其の数をしらず此等の重罪はたせるもあり・いまだ・はたさざるも・あるらん、
果すも余残いまだ・つきず生死を離るる時は必ず此の重罪をけしはてて出離すべし、
功徳は浅軽なり此等の罪は深重なり、

権経を行ぜしには此の重罪いまだ・をこらず鉄(くろがね)を熱(やく)にいた(甚)う・きたわざればきず隠れてみえず、
度度せむれば・きずあらはる、
麻子(あさのみ)を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし、

今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし、
鉄は火に値わざれば黒し火と合いぬれば赤し木をもつて急流(はやきながれ)をかけば波山のごとし睡(ねむ)れる師子に手をつくれば大に吼(ほ)ゆ。
(開目抄p232後ろから3行目~)

「重きを転じて軽く受く」と読み下す通り、妙法を弘め護り抜くことによって、本来ならば無数の大きな苦しみを、現在世のみでなく未来世の多くの生死にわたって受けていかなければならないところを、護法の実践の功徳力によって現在世に一挙に軽く受け、過去の悪業のすべてを消滅できるのである。この転重軽受を明かすに当たって、大聖人がまず、ご自身の過去世の謗法の重罪を二つ挙げられたのがこの御文である。

一つ目に、悪王と生まれて、法華経の行者の衣服、田畑、などを奪い取ったとされ、それはちょうど、ご在世当時の日本の人々が天台宗の法華経の寺院を破壊しているようなものであるとされている。二つ目は、法華経の行者の首を数えきれないほど、はねたことである。しかも、これらの重罪のうち、罪障をまだ消滅していないもの、「余残【よざん】」が尽きていないものもあると仰せである。法華経誹謗の罪は容易に消滅できないことを示される趣旨と拝される。

自分の感想をここで交えると、大聖人ご自身が過去世で法華経の行者の衣服・田畑を奪い取ったばかりか、悪い権力者と生まれて法華経の行者の首を刎【は】ねたことさえ数えきれないと明かされていることである。生命の因果を説いたのが仏法であるから、言われてみれば確かに理解可能なことである。法華経の行者の首を刎ねたことがあるから、今世で今度は自分が首を刎ねられる。過去世で衣食住を奪い取ったから、今度は自分が法華経の行者としてそれらを奪われる報いを受ける。

もちろん、大聖人は末法の御本仏であるから、これらの過去世の重罪は「示同凡夫【じどうぼんぷ】」のお姿と拝される。すなわち御本仏として一切衆生を救うための手本を示されるために、我々と同じ凡夫のお姿で、難を乗り越える仏の境涯を示すのである。

その上で、自分の体験上、創価学会員というだけで何度も悪口やいじめ、侮辱・誤解などを受けてきたが、この原理に照らせば実はそれらは、自身が過去世から法華経の実践者に対して同じことを行ってきたということを表している。自分がさんざん苛めてきたから、今世で自分が苛められるのである。それも妙法を正しく実践したからであり、念仏・禅・真言等の権教を行じたのでは、罪業の報いは現れない。

後半の「鉄と火」「急流と木」「眠れる獅子」の譬えは、何も手を加えなければ変化はないが、あえて手を加えてこそ苦難が現れ、問題の本質的解決につながるということの譬えである。すなわち、謗法を呵責し正法を護持する実践の功徳によって、過去世の無量の重罪が一時に招き出され、それによって難が生じるが、しかしそれは、死後来世に受けるべき重い報いを今世に軽く受け宿業をすべて消し去ることになるのである。これが「転重軽受」の法門である。この御文に対して池田先生は次のように講義されている。

この師子王の心を取り出して、「宿命」を「使命」に変え、偉大なる人間革命の勝利の劇を演じているのが、わが久遠の同志の大境涯といえます。(中略)この人生の真髄を教える大聖人の宿命転換の哲学は、従来の宗教の苦難に対するとらえ方を一変する、偉大なる宗教革命でもあるのです。
(『世界広布の翼を広げて 教学研鑽のために 開目抄』p229~)

 

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