勝ってこそ歴史は作られる

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27年前にわが町を初来訪された池田先生が、勤行会でスピーチされたご指導を、一部抜粋して紹介します。

 

 

勝ってこそ歴史は作られる

”仏法は勝負”であり、「勝つ」ことが正法の証明となる。また、勝ってこそ新しい「歴史」はつくられる。負け戦では道は開けない。負けることは、みじめである。都落ちし、壇ノ浦へと転落していく平家の哀れさ、悲惨さ。清盛なく、重盛【しげもり】なく、一族の柱を失ったあとで、だれも「勝てる将」がいない。そうした状況を描いた、あるドラマでは、一人の母親が、息子のふがいなさに、「お前をこんなに勇気のない人間に育てた覚えはない」と嘆くシーンもあった。しかし嘆いても、取り返しがつかない。

「勝つ」ことが、自分のみならず、一家・一族、周囲の幸福につながる。広布の前進においても、大法のため、大切な仏子のために、何としても勝ち抜いていかねばならない。火花を散らすような峻厳なる攻防戦を勝利せずして、どんなに活躍している格好を見せても、もはや遊戯にすぎない。「進んでいる」のではなく「踊っている」だけである。特に青年部に、このことを強く言っておきたい。生まれてきた以上、何の歴史も残さないで死んでいくのでは、寂しい。どうか皆さま方は、自分としての何らかの「勝利の実証」を、この人生で、晴れやかに、誇らかに示していっていただきたい。

永遠の金字塔を

もちろん「勝利」といっても、人生には、さまざまな段階がある。また、今は、苦闘のさなかの方もいらっしゃるにちがいない。それでよいのである。大切なのは「最後に勝つ」ことである。そのために、信心を貫くことである。野球も9回まである。途中までは、さまざまな明暗のドラマがある。途中の回まで、どんな姿であっても、9回の裏を終わった時にどうかが、すべてである。学校も小学校、中学校、高校、大学とある。途中までの成績も大切かもしれないが、やはり大学を卒業した時点での実力が、学びの時代の総決算となる。

そして私どもにとって、「最後の勝利」とは、一生成仏であり、広宣流布である。悪世での正法流布を誓って生まれた久遠の同志、御本仏の仏子の軍勢が、どこまで進むことができるか。我が地域に、どこまで妙法の不落の砦を築くかの戦いである。個人も、団体も、国家の盛衰も長い目で見なければわからない。そして私たちは、常に最終の勝利のために、根本の「勝つ原因」を日々、つくっているのである。ゆえに、私どもにとっては途中の一切が「幸福のこやし」になる。何ひとつ無駄はない。妙法は円教であり、「闕減(けつげん=欠けるところ)」がないのである。このことを確信していくのが信心の信心たる証である。

――抜粋ここまで――

 

ちょうどこの時、自分は初の折伏を決めた後に、職場でのいじめを受けたこと等により体調を崩し、帰郷後、遠方の病院に入院を余儀なくされていました。病院内で取っていた聖教で先生の御来苫を知りました。実は、神奈川から北海道へUターンする時に、私が折伏した友人から、「レオさんは、まるで都落ちですね」と言われたこともありました。理解されない悲しさが一瞬心に浮かびましたが、誰が何を言おうと断じて負けない! との強い思いだけはありました。私が難を受けたことにより、創価の道を歩み始めた友人も、難の余波をかぶることになり複雑な思いをさせたかもしれません。

ともかく、この時、人生最大のピンチにあった自分でしたが、このご指導を読んで、あたかも自分に頂いたご指導のような感を強くしました。例え、こと細かく自分のことを報告する人が1人もいなくても、「先生はすべて解ってくださっている」との感動を深くしました。ある意味、ここから我が人生の反転攻勢が始まる起点となりました。今に至るまで、度々、拝読し直して心に刻んでいます。人生の苦難に直面し、あまりにも孤独な戦いを強いられる時もあるかもしれない。しかしどんなに孤軍奮闘の渦中であったとしても、先生の一念に包まれて戦えていることを忘れてならないのです。

 

 

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