冬の信心

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大地はささ(指)ばはづるるとも、
虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも、
潮のみちひぬ(満ち干ぬ)事はありとも、
日は西より出づるとも、
法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず
(p1351)

妙法の実践者の祈りは必ず叶うとの「祈祷抄」の仰せです。
この御文の通りに私も再発心後、四半世紀にわたって、大小さまざまの祈りを叶えて頂き、学会と御本尊に深く感謝しています。

ところで、もし仮に信心をしていながら、1つも願いが叶わなかったら、あなたはどうしますか。
透徹した潔(いさぎよ)い実践をしていれば、願いが叶わないことなどあり得ないのですが、ここにAさんならAさんがいて、1つも願いが叶わないから信心を辞めると言い出したとします。
祈りが叶わないから退転すると言うのです。

このAさんの間違いとして考えられるのは、1つには同志誹謗が無いか、それによって功徳がせき止められていないか反省しなければなりません。
2つには、祈りが叶わないから退転するという思考に、根本的な誤りがあるのです。

それは一般的に見ても、余りにも現世利益に流され、本当の信仰心とはかけ離れてしまっています。
あるいは、これだけ○○したのだから、これとこれは叶えてほしいとのおねだり信心になる場合があります。
乞食信心とも言われているようです。
そういう人に限って、御本尊へ「ああしてくれ、こうしてくれ」の要求は大きいのですが、自身が身を粉にして広布の戦いをしていません。

学会に何かしてもらおうというのではなく、自分が学会のために何ができるか、が大事です。
その心と行動があり感謝あるところに、功徳の花が咲かない訳がないのです。

「冬の信心」と言われるように、「冬は必ず春となる」訳ですが、春まだ来ぬうちは厳しき冬が続きます。
時にはどれだけ真剣に実践しても祈っても、目に見える結果が出ないばかりか、試練が打ち続く厳寒の時もあるでしょう。
それはそれで深い深い意味があると捉えていくことが大事です。

日蓮大聖人のご一生を学べば、大難と戦い乗り越え、広布の大願に生き抜かれたご生涯でした。
「我が生きざまを見よ! 苦難に対してはかくあれ!」
との御本仏としてこれ以上ない勇気と不屈の手本を示されたのです。
さてここで、次の2つの御文を紹介します。

此(こ)の法門を申すには必ず魔出来(ま・しゅったい)すべし
魔競はずは正法と知るべからず
(p1087)

御義口伝に云く妙法蓮華経を安楽に行ぜむ事
末法に於て今日蓮等の類いの修行は
妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり。
(p750)

特に、「魔が競わなければ正法ではない」「難来るをもって安楽と意得べきなり」と仰せです。
このことを深く確信していかないと、「良いことが無いから信心を辞める」という不信の落とし穴に堕ちてしまうのです。
こういう人には、「不自惜身命」あるいは殉教の精神ということを、理解することさえ不可能です。

苦楽ともに一切が自身を成長させてくれる仏の計らいとの感謝と勇気あるところに、変毒為薬・転重軽受されて、草木萌え出ずる暖かき陽光の春が、必ずやって来るのです。

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コメント

  1. 菊川広幸 より:

    おかえりなさい。
    半年間の充電ですか。私もしてみたいです。
    どんな感じになるのか、また、記事で教えてください。
    これからも宜しくです。(^^)

  2. レオ より:

    ただ今帰りました。
    もう暫く休んでおればいいものを、ウズウズしてきたので再開しましたw
    充電期間を経たのが、期待外れにならぬよう、祈りを根本に前進していきます。
    改めて宜しくお願いします。(^.^)