ひぼしにされた人間はだめ人間である?(2)

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引き下げの心理の他に「投影」といって責任を相手にぶっつける心理がある。

ある会議に部下Aを招くのを忘れていた上司が
「お前のスケジュールが分からないもので声のかけようもなかった」
という。
部下Aは「すみません」と答える。
部下はいかにも自分が悪いことをしたように思ってしまう。
無計画に出たとこ勝負ですぐ会議を開く自己中心的な上司の責任は不問のまま、部下にのみ責任を求めるのは、責任回避の策である。自分の責任を人のせいにする方法を投影という。

人の投影に気づかないと自己をせめることになる。
自分をせめすぎると「うつ状態」になる。
それゆえ、頭を使って
「本当に私は悪いことをしたか。上司・先輩・同輩・後輩のそれぞれにも責任はないか。私一人が自己反省するのは妥当か」
と自問自答することである。

(中略)
自分は上品ぶって人とけんかもせず、その不満をカウンセラーや親に語り、カウンセラーや親に問題解決にのり出してもらうという姿勢はきわめて欺瞞【ぎまん】でわがままである。
おとなとは、自分の問題は自分で解こうとする人のことである。

さらに人をひぼしに追いやる人間には、人を辞めさせたいのだが「辞めてくれ」というのは嫌なので、故意に人の嫌がる仕事を押し付けることがある。

遠方に通勤、早朝に出勤、気難しい上司の下に配属、特別の能力を要する事務を担当、など。
すると当人はいや気がさして辞めていく。つまりマイルドないやがらせである。

ところがどう考えても、自分に落ち度があった、自分が馬鹿だった、ひぼしにされて当然である、と判断せざるを得ないこともあるが、それでもなおかつ、自分はだめ人間である、自分の人生はこれで終わりだと考えるべきではない、と筆者は言います。

1つは、自分はだめだったと百万遍自分をせめたところで心境に変化が生じる訳ではなく意味がありません。
そこで「今後、同じような失敗を再び繰り返さないためには、自分はどうしたらよいか」を具体的に考えるのです。

ひぼしになった原因がどう考えても自分にあると思う場合に、落ち込まないための2つ目の処方箋は、人格と行動は別物であるとの考えを持つことだと指摘しています。
「私はだめ社員です」と人格を評価するのでなく、「私の働き方は下手でした」と行動を自己評価する言葉にするのです。

人格を自己評価している訳ではない。
販売が下手、収支決算表の作成が下手、朝礼の挨拶が下手、電話の応対が下手。
「だからといって」その人は人間としての値打がないとはいえないのである。
イエス・キリストがワープロが打てず、車が運転できないからといって「だめ人間」と思う人はいないのと同じである。
給料は自分の人格に支払われているのではない。
自分の役割(パフォーマンス)に支払われている。
ゆえに役割がこなせないとお払い箱になるかもしれないが、かといって人格がお払い箱になったのではない。これをきちんと自分に言いきかせる必要がある。

医学は血が噴き出しているようなケガを治すことができます。
これに対して人間は誰しも「こころ」を持っているにも関わらず、こころの動きや感情を軽視してしまいがちです。
もしかすると貴方のこころは傷つき、あたかも血を噴出しているような状態かも知れません。
そんな時に心理学やメンタル・ヘルスが役立ちます。
その第一歩は、自他の心について知識を深め、上手に活用できるようになることだと思います。

時には足かせともなるように感じられる感情ですが、なぜ人間は感情を持っているのでしょうか。
それは人類が集団行動で生き残って来たことと、関係が深いようです。
霊長類である人間は、腕力が弱い分、仲間同士で助け合い、集団で行動するために、緊密にコミュニケーションする必要があり、共感力等、豊かな感情が備わったと考えられます。

仏法はより根源的に生命の因果を明かした教えです。
今日の心理学の領域に踏み込んだ、深い知見も数多く見られとともに、それら科学を始め一切の人間の営みを指導する哲学でもあります。
今回紹介した本は21年前のものでかなり古いですが、また1つ収穫が得られました。

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