ひぼしにされた人間はだめ人間である?(1)

この記事は約3分で読めます。

「イラショナル・ビリーフ」という用語がある。
国分康孝さん著の『自己発見の心理学』という本に出てくる用語です。
氏は哲学博士であり、カウンセリング心理学の専門家です。

さて「イラショナル・ビリーフ」ですが、例えば「私は失業した。ゆえにもう生きられない」というビリーフがそれです。
ビリーフとは考え方、あるいは受けとり方を意味し、英語ではBeliefと書きます。

「失業した」という文章と「もう生きられない」という文章とが、どうしても結びつかなくてはならない必然性はあるか、と自問するのである。
「失業した。ゆえに失業保険で当分暮らそう」
「失業した。ゆえに次の職を探そう」
「失業した。ゆえにこの機会に少し静養しよう」
「失業した。ゆえに父の家業を継ごう」
といった具合に、「ゆえに」のあとに続く文章はいくつでもある。
いくつもあるのに、よりによってみじめになる文章を任意にえらび、いかにもこれが人生の真理のように思い込んでいる。
これはまともなビリーフではない。イラショナル・ビリーフである。

悩みの下にあるイラショナルな文章記述を発見し、それをラショナル(=合理的)な文章記述に変えることが、悩みから脱却する方法であると筆者は提唱している。
「こうあるべきである」「こうあらねばならない」との考えが、いかに思い込みであり錯覚であることが多いか、ということを人生の様々の局面を挙げて、解きほぐしているのが本書です。
中でも私が一番興味深く読んだのが「ひぼしにされた人間はだめ人間である」の章です。

「ひぼし」とは周りから低い評価を受けて、仲間はずれにされることである。
職場での村八分である。
気の弱い人間は、自分の人生もこれで終わりだ、自分は欠陥人間らしい、辞めるか死ぬかのほかに打開策はないと思いこむ。

考え方を工夫するポイントとして筆者は3つ指摘する。
第1は、私をひぼしにした上司は私を正当に評価していない! と答えるのが普通ですが、これは上司と私の価値観は異なって当然であるということを見失っているのです。
私に上司の価値観をえらばない自由があるように、この上司も私の価値観をとり入れない自由があるのです。
価値観が違うからといって一日8時間を共有できない訳ではないし、私生活まで支配されている訳でもないし、世も末な訳ではないのです。

第2のポイントは、ひぼしにする側にこそ、何らかの心理的問題がある場合です。
ニワトリ小屋に新しく入れられたニワトリを古参ニワトリがいじめるのと似ています。

これは「引き下げの心理」といって、古参社員が新入社員に劣等感を持った場合、自分たちの劣等感を消すために、新入社員にケチをつける心理である。
いじめられる方にすれば、自分が至らない人間だから・・・・と反省もしたくなるが、実はいじめる側が至らない人間なのである。したがって自己非難、自己卑下、自己分析するよりは、心密かに相手方を分析し卑下し非難した方が理にかなっていることがある。
上司・先輩を批判すべきではない、と模範生徒ぶらない方がよい。
「彼たちは今、私に引き下げの心理を向けている」と見抜いて、なるべく相手の劣等感を刺激しないようにする。しかし全く刺激しないですますわけにはいかない。
そこは居直ればよい。


ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


コメント