前号の記事「魔との戦い ~御書三編」は、実は「貧乏の鉄鎖を切る」の続編を書くための準備として掲げたのである。
抜き書きが意外と長文になってしまったので、御書のみを別記事としたことを了解願いたい。
この記事の要旨は、経済的困窮に陥る原因の一部分を、「魔がなす障害」として捉えられないかということである。
いかなる障魔もその正体を魔と見抜けば、それだけで7~8割 魔は力を失う。
あとは一歩も退かない強盛なる信心で立ち向かっていけば、魔は退散してしまうのである。
まず兄弟抄から見ていこう。
悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)と言う法門があり、悪鬼がその人の身に入ることがある。
悪鬼とは人智を超えた超越的な働きで、人間に害をなすものを悪鬼と呼ぶ。
これとは反対に、諸天善神などの善の働きが身に入り、その人自身のみならず周りの人々や国土をも守る場合もある。
悪鬼入其身に戻って、悪鬼が智者と言われる宗教界の指導者に入った場合、その巧妙な邪説に騙された衆生は、法華経から権経へ、権経から小乗経へ、小乗経から外道へと、次第次第に低劣な教えに堕落させられていってしまう。
兄弟抄では特に、悪鬼が妻子や父母・主君といった身近な存在や、こちらが従わなければならない存在に入其身(にゅうごしん)し、法華経の行者を悩ませると仰せである。
そして摩訶止観の釈を引き、次のようにご教示されている。
信心の実践と理解が進んでいくと、三障四魔が まぎらわしく、それと気付き難い現われ方で、競い起こってくる。
決してそれらに随(したが)ってもならないし、畏れてもならない。
もし障魔に随えば、例外なくその人を地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕(お)としていく。
もし障魔を畏(おそ)れれば、正法を実践することを妨げられてしまうのである。
この釈は、日蓮が身に当る大事であるのみならず、門家の明鏡(=規範)である。
謹(つつし)んで習い伝えて未来の資糧(=信心のかて)とせよ。
ちなみに漢和辞典によると、「畏」の字は、刃物を持った人が別の人を威嚇している姿だそうだ。
ともかく「これは三障四魔だな」 と気付いた後は、随ってもならないし畏れてもならない。
ある意味、吠え付いてくる犬のようなもので、逃げれば逃げるほど勢いを増して追いかけてくるのが障魔なのだ。
もちろん、家族や上司等の場合、無用な口論や喧嘩をする必要は無い。
賢明に対処することは、当然、大事なことである。
その上で、奥底の一念は一歩も退いてはならない。
随う心や恐れる心が微塵でもあれば、魔はそれに付け込んでくる。
微動だにしない強い信心で戦えば、必ずどんな魔も退散させることができる。
反対に、最後は仏法を守る存在に変えることも可能なのである。
続いて常忍抄では、魔は法華経の行者に障害をなし、善を邪魔立てし悪事をさせようと、虎視眈々(こしたんたん)と隙を狙っているというのだ。
こうした三障四魔による障害の1つとして、経済的困窮に陥らせようとの働きである場合がある。
経済的に行き詰らせて、愚癡を起こさせ信心を破ろうとする、魔の働きである場合だ。
この場合も断じて、随ってもならないし畏れてもならないのである。
収入を断って信心を退転させようとする魔の働きと賢明に見抜いて、勇気ある信心で戦い切るとともに、経済次元においても仕事においても、真剣な工夫・努力をしていくのだ。
心が腐って意気消沈してしまうことが、一番の魔の思う壺なのだから。
3つめの松野尼御前御返事では、魔のボスである第六天の魔王であっても、こちらの信心さえ揺るがなければ、恐れて寄り付かないし、最後にはこちらに供養(=仏法守護の手助け)さえしてくると仰せである。
何と心強いお言葉であろうか。
心の財さえ強固であれば、一切の蔵の財や身の財も縦横無尽に使いこなせるとともに、広布のために望めば、物心ともにこれ以上ないという裕福な境涯に、必ずなることができるのである。
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コメント
三障四魔を見分ける信心が大事ですね。
私のは三障四魔は対話を避け続ける幹部への不信感でした。
座談会の日程さえ教えない幹部への怒りでした。
それで自分が信心を怠れば三障四魔にやられた姿ですね。
それに気づいてからは座談会の日程教えてくださいと何度でもお願いすることが楽しくなりました。
10年かかりましたが最近、連絡が来るようになりました。
信心は楽しくいきたいですね。
幹部が対話を避け続け、座談会の連絡をしてこないのですか?
故意にうるとらまんさんだけに連絡しないのですか。
または仕事が超多忙、或は出張が多く、周る時間も取れない、などでもないのですか。
そのような関係になった理由は何かあるのですか?
もしそのような意地悪な幹部だとしたら、負けないでくださいね。
おかしな幹部というのは長い目で見ると、いつしか広布の陣列から消えていくものです。
また、幹部といえど色々な人がいるし、好き嫌いもあるでしょう。
「自分があの立場になったら、絶対にああはならないぞ!」
と決めて自分が成長するしかないですね。
正にそのように実行されているうるとらまんさんは素晴らしいと思います。
私も色々疑問に思う幹部の言動が、皆無という訳ではありません。
すべて自分を磨いてくれる磨き石と捉えて、前進していきます。
「楽しい信心」ほんとうに大事なことですね。
忘れがちなので、心がけていきます。
あと、うるとらまんさんのブログをリンクさせてもらってよいですか。
ブログのリンク、ブログの転載はどうぞ使ってください。
うちの村は公明村議はいません。幹部は応援で他の本部の市会議員の応援に出かけます。
うちのブロックの大きさは支部二つ分ぐらいの広さがあり自民党の村議も一人もいない強固な革新地盤です。
国政選挙では票が見込める都心部に力が入ります。
地方選挙のある年 県議選 国政選挙 等で3年間は幹部は応援体制です。
4年に一回は選挙のない年ですが幹部のみなさん、疲れてしまってその年は休息みたいです。
そんな4年間サイクルが続いています。幹部のみなさん、会合と選挙をこなすだけで部員指導までは難しいようです。
最近、公明新聞日曜版を真面目に読んでいるレオです。
選挙が無い1年をほとんど通して休養に使っている、学会幹部など居るのですか?
冗談半分だとしても、ちょっと笑えないです(苦笑)
1人の議員を当選させるまでに、どれほど真剣にすべてを投げ打って支援しているかを表わす、エピソードなのでしょう。
議員の人たちは、それを努々(ゆめゆめ)忘れることなく、国民のための優れた政治を行なって欲しいですね。