試練に遭ってこそ本物に鍛えられる(2)

●上野殿御返事p1556~

爰(ここ)に日蓮思ふやう
提婆品(だいばほん)を案ずるに
提婆は釈迦如来の昔の師なり、
昔の師は今の弟子なり・今の弟子はむかしの師なり、

古今 能所不二にして法華経の深意をあらわす、

されば悪逆の達多には慈悲の釈迦如来師となり
愚癡(ぐち)の竜女には智慧の文殊師となり
文殊・釈迦如来にも日蓮をとり(劣)奉るべからざるか、

日本国の男は提婆がごとく
女は竜女にあひに(似)たり、
逆順ともに成仏を期(ご)すべきなり
是れ提婆品の意なり。

(中略)
日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ、
剰(あまつさ)へ刀の難は前に申すがごとく
東条の松原と竜口(たつのくち)となり、
一度も・あう人なきなり日蓮は二度あひぬ、

杖の難には

すでにせうばう(少輔房)につら(面)をうたれしかども
第五の巻をもつてうつ、
うつ杖も第五の巻
うたるべしと云う経文も五の巻
不思議なる未来記の経文なり、

(中略)
いま・をもひ・いでたる事あり、
子を思ふ故にや
をや(親)つぎ(槻)の木の弓をもつて
学文せざりし子にをしへ(教)たり、
然る間・此の子うたてかりしは
にく(憎)かりしは・つぎ(槻)の木の弓、


されども終には修学増進して

自身得脱をきわめ・又人を利益する身となり、
立ち還つて見れば
つぎの木をもつて我をうち(打)し故なり、
此の子そとば(率塔婆)に此の木をつくり
父の供養のためにたて(立)てむけりと見へたり、

日蓮も又かくの如くあるべきか、

日蓮仏果をえむ(得)に争(いかで)か
せうばう(少輔房)が恩をすつべきや、
何に況や法華経の御恩の杖をや、
かくの如く思ひつづけ候へば感涙をさへがたし。

法華経では、破和合僧の大罪を犯し生きながら地獄に堕ちた提婆達多は、過去世において釈尊の師匠であったことを明かされています。三世にわたる生命の深い次元から見ると、今世は悪逆の弟子であっても、ある時は師匠と弟子の立場が入れ替わり、師と弟子が不二の姿で、法華経の深意を顕すのであると大聖人は仰せです。順縁も逆縁も成仏させる絶大な力が、創価の御本尊に厳然と具わるのです。

次に平左衛門尉の一の家来だった少輔房に、大聖人が第五の巻で頬(ほお)を散々に打たれた杖の難に言及されます。そして、学問成って多くの人に貢献できる身となった者が、自分を厳しく教え導いてくれた父が用いた鞭(むち)の木を、父の墓前に供養した例を挙げています。

さらに大聖人は「少輔房の恩を捨ててはならない」「まして法華経の恩はなおさらである」と仰せになります。「少輔房の恩」とまで表現されていることに、余りにも深いお心が拝せます。凡夫であるから難に直面した時に、恨みや臆病などの心が起こるのはある意味自然なことかもしれない。しかし、いかなる難があろうと退転だけはしてはならない。

難があるからこそ、成仏への道を前進できる。困難に揺るがぬ強い自己を築くことができるのです。難との戦いは己心に仏界を開くために必然の道程なのです。後で乗り越えてみれば、「あの難あればこそ今の自分がある。幸福への直道を歩むことができた」と歓喜とともに振り返ることができます。

信念は試練に遭ってこそ、本物に鍛えられます。いわんや最高の信念である真の信仰に、諸難が起こるのは当然なのです。所願満足の絶対的幸福の境涯を開くための今の試練と確信して、雄々しく立ち向かっていきます。長文を最後まで読んで頂き有難うございました。

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