福運

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まだ男子部で二十歳位だった頃、壮年幹部が「福運がないんだよ」と呟いていたのを思い出す。誰のことを言ったのかは、聞き返さなかったので不明だが、心の中でこう思ったものだ。

「福運は有るか無いかが大事ではない。福運は積むか積まないかが大事だ。もし無いのであれば、この信心で福運を積めばよいのだ」

考えてみれば、福運が無いと思えたからこそ、真剣に福運を積もうと決意し努力できるのである。少なくともスタートラインに立ったのだと言える。

どんなことも上を見れば、上には上がいて切りがない。反対に下を見ても、もっと大変な境遇を経てきた人はたくさんいる。何が上で何が下か、などということは、案外世間体に振り回されているに過ぎず、そういうレッテル貼りがよいとは言えない場合が多い。いずれにしても、「昨日の自分と比べて、一歩でも前進していれば勝利だ(趣旨)」と先生は仰っている。

例え、どんなダメに思える自分だったとしても、そのありのままの自分の生命に仏界の生命が内在するのだから、いたずらに卑下する必要はない。今、どんな悩みの境遇に置かれていたとしても、御本尊を持ち創価の陣列に連なっていること自体が、最高の福運の持ち主なのだ。御書の四菩薩造立抄に次のようにある。

日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども
仏法を以(もって)て論ずれば
一閻浮提第一の富(とめ)る者なり、
是(こ)れ時の然(しか)らしむる故(ゆえ)なりと思へば
喜び身にあまり感涙押へ難く
教主釈尊の御恩報じ奉り難し
(988㌻)

身延の地にあって食べ物にも事欠く境遇にありながら、大聖人は仏法の眼から見れば、「日蓮こそ世界第一に富める者である」 「喜び身に余り感涙が押さえがたい」と仰せになっている。成仏の大法たる南無妙法蓮華経を身で読み弘通することのできる、我が身の福運と大歓喜を表現された御書である。

話を福運に戻そう。例え今、福運を豊かに持つ人であっても、慢心に陥り油断してしまえば下り坂を転げ落ちるしかない。反対に今、福運が乏【とぼ】しい人であったとしても、素直に強盛に信心を実践すれば、それが因となって将来、偉大な境涯を開くことができる。つまり一時的な福運の有無にとらわれる愚かさが解る。

今ある福運に感謝してより一層信心に励む人こそが、或いは目先のことに紛動されずに、生涯にわたって信心を貫き通す人こそが、最も福運ある人なのである。

さらに考察を進めてみよう。実証を示すことはむろん大事だが、信心を根本としない名聞名利であれば、所詮、幻と同じである。役職等もそれ自体が信心の目的ではない。ただ肩書だけあっても、真に役職の責任を果たす戦いをしなければ、そこに幸福はない。「心の財」を忘れて外面のみを追っても、それは真の福運ではないのである。

最近、指導頂いたのは、努力と福運は掛け算だということ、すなわち、信心においては次の公式が成り立つ。

努力×福運=結果

つまり、同じ努力をしていても福運があれば大きな結果として現れる。もし福運が無かったとしたら、努力をしても結果はゼロかごく僅【わず】かである、ということであった。様々論じられる福運だが、やはり人生勝利するためには「福運」が大事であり欠かせないことはハッキリしている。

では、どうすれば福運を積むことができるのか。大聖人の仏法を端的に言えば、次のような趣旨の学会指導になる。
「自分のことだけしか考えない人は決して幸福にはなれない。あなたのお陰でこんなに幸福になれました、という人をつくればつくったぶんだけ、自分が幸福になるのである」
この利他の実践こそ福運を積む(=自分を利する)直道なのである。

(令和1.5.20 加筆・修正しました)

 

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コメント

  1. ちよ より:

    いい記事だね

  2. 福島の壮年 より:

    深く共感します。

    http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/hokekyo/09.html
    『SokaNet/教学基礎情報/法華経について/不軽菩薩』
    に、常不軽菩薩品の一節が現代語訳されています。

    「私は深くあなたたちを敬い、決して軽んじない。
    なぜかといえば、あなたたちは皆菩薩の道を行じて
    成仏することができるからである」

    全ての人に仏性がある。
    だから今、どんな境遇の人であっも全ての人が尊い。
    その仏性を敬い、観じることができる鍵とは、
    皆「菩薩の道を行じ」ることに尽きるのですね。

    法華経に至って、舎利弗もその他の二乗の直弟子たちも
    学無学の全ての大衆も、男も女も、悪人でさえ、
    「他者を慈しみ、他者の仏性を尊び」
    「自他ともの幸福を願い」
    「真の菩薩道を行じ」
    「その菩薩道の障害となる事象を敢然と取り除く」
    ことに目覚め、戦いを「し続けられれば」
    成仏(絶対的幸福=何ものにも崩れざる福運に満ち満ちた
    境涯)を獲得できると。

    誰がとか、自分はとか、「相対的な幸福や福運」を
    追っているうちは、まだ「二乗道」ですものね。

    ただ、これを「日々怠らず」続けること、
    これが難しいのですよね、凡夫には。
    仏性と共に誰にでもある生命の濁り・無明。
    結局は、自身との戦い。
    磨きをかけるための唱題行。
    そこに行き着きます。

  3. Leo2014 より:

    福島の壮年さん、こんばんは。

    「法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、
     不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ
     教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、
     穴賢穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ」
    (崇俊天皇御書1174㌻)  

    不軽品と言えば上記の御文が有名ですね。
    法華経の実践行動としての柱は不軽品であり、仏がこの世に出現した目的は、人としての最高の振る舞いを示すことにあったのですね。

    福運を根本から積むための原因は、ここにこそ、つまり仏の振る舞いを現代において行じ展開している唯一の団体である、創価学会の戦いの中にこそ存在します。

    別な御書には次のようにあります。

    「我今五眼をもつて明に三世を見るに
     一切の国王は皆過去の世に
     五百の仏に侍【つか】えるに由【よ】つて
     帝王・主と為【な】ることを得たり」
    (立正安国論19ページ)

    「帝王あるじ」とは現代的に言えば、一切のリーダーや指導的役割の人々を指します。
    福運の豊かな人と読み替えても、よいかもしれません。
    その彼らが持って生まれた、根本の福運はどこから来たのか。

    過去世で無数の仏に仕えたことによるのであると明かされているのです。
    これは様々な解釈が可能と思われますが、一切衆生の成仏すなわち民衆の幸福が仏の願いですから、民衆に仕える人こそが真のリーダーとの、先生の指導に合致するのです。

    それらを一切可能にする根本の実践が、福島の壮年さんも仰る自行化他にわたる唱題行なのですね。