十四誹謗は功徳を消してしまう

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・説明できることと、そのことを体現していることは大きな違いがある。

・説明できることと、実践していることは全く違う。

・言葉のやり取りだけが「声仏事をなす」のではない。相手を傷つけようとの心ない言葉が、仏の仕事であるはずがない。

・十四誹謗は厳に戒めていきたい。同志を謗【そし】ることは、魔に負けた姿であり、結局は自分を傷つけるのと同じであるからだ。

 

最近思ったことを箇条書きにしてみました。この十四誹謗はなかなかの曲者です。自分もちょっと油断すると、同志を悪く言う命が出てきます。常に、自分で自分を戒めていきたいと思います。次に、十四誹謗について、先生が指導された内容を紹介します。

 

■池田SGI会長の指導から

 日蓮大聖人は、松野殿が質問された「聖人が唱えられる題目と、私たちが唱える題目と、その功徳に違いがあるのでしょうか」(御書1381ページ)との疑問に対して、「違いはない」(同)とされたうえで、「ただし、法華経の心にそむいて唱えれば違いが出てくる」(1382ページ)と教えられている。
 その「法華経の心にそむく」ことを、具体的に述べたのが十四誹謗である。いいかえれば、十四誹謗がなければ、唱題の功徳は同じであり、計り知れないと述べられているのである。

 「松野殿御返事」では、妙楽大師の『法華文句記』の次の文を引かれて、十四誹謗を明かされている。
 「悪因には十四の謗法がある。一に驕慢【きょうまん】、二に懈怠【けたい】、三に計我【けいが】、四に浅識【せんしき】、五に著欲【ちゃくよく】、六に不解【ふげ】、七に不信、八に顰蹙【ひんしゅく】、九に疑惑、十に誹謗【ひぼう】、十一に軽善【きょうぜん】、十二に憎善【ぞうぜん】、十三に嫉善【しつぜん】、十四に恨善【こんぜん】である」(同)と。

 この『法華経文句記』の文は、「法華経譬喩品」の「若【も】し人は信ぜずして 此【こ】の経を毀謗【きぼう】せば 則【すなわ】ち一切世間の 仏種を断ぜん」(法華経198ページ)との有名な文を含む一節を釈したものである。法華経、すなわち「正法」への誹謗と、「正法を信じ行ずる者」への誹謗が、ともに地獄の因となることを明かしている。―――1990・12・3

           ※

 必ず所願満足の人生、永遠なる幸福境涯を、自然のうちに会得していけるのが、妙法の功徳なのである。しかし、その功徳も、信心いかんにかかっている。日蓮大聖人も「どのように法華経を信じていても、謗法があれば必ず地獄に堕ちる。それは、千杯の漆【うるし】にカニの足を一つ入れて、漆をだめにしてしまうようなものである」(1056ページ)と仰せである。どんなに真剣に、まじめに信心しているようであっても、謗法があれば、すべての功徳を消してしまう。それは、わずかの青酸カリでたちまち死んでしまうようなものである。

 御書には、悪の因をつくるものとして、十四の誹謗が挙げられているが、そのなかに「軽善【きょうぜん】」(1382ページ)、「憎善【ぞうぜん】」(同)、「嫉善【しつぜん】」(同)、「恨善【こんぜん】」(同)がある。信心している人を「軽んじ」「憎み」「ねたみ」「恨む」ことが、それにあたる。
 懸命に、これほど信心をしているのに、功徳が感じられないという場合が、あるかもしれない。そのときは、この四つの誹謗がないかどうかを、自分に問うてみていただきたい。軽善、憎善、嫉善、恨善の人は、自分で自分の功徳を消してしまうからである。

 もちろん、同志に対しても、言うべきことをきちんと言っていくことは自由であるし、当然、必要なことである。しかし、相手を思って厳しく言うことと、憎しみの心や恨みの言葉は同じではない。その点はよくよく見きわめていかねばならない。御本尊のもとに集い、広宣流布に進んでいる私どもは、すべてが仏子であり、“妙法の家族”である。―――1990・2・20

 《『輝きの人間世紀へ ~御書とその心』のp.107~108/池田大作著/聖教新聞社》

 

 

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