功徳を受ける信心

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私ごとですが、ここ最近は仕事に活動にとなかな忙しいです。
先日は隣の市で市議会選挙が近いため、交流に行ってまいりました。
まだほんの近場でしたが、勇躍歓喜して帰宅しました。

しばらくブログに手が付きませんでしたが、最近思うところを綴ってみたいと思います。

ここ最近時間をつくっては河合一氏の著作などを読んでいます。
『生活にいきる信仰』を読了し、『続・生活にいきる信仰 Q&A』をいま読んでいます。

河合氏が一貫して強調するのは、次のような疑問です。
「同じ信心をしていても、功徳を受けている人と受けていない人の二通りあるのはなぜか」

その答えとして、著書で次のように繰り返し強調しています。
「義務の人」
「惰性の人」
「不信の人」
には功徳は無いか、あっても少ない、と。

「言われたから」「やらないといけないから」といって受け身で信心をしている「義務の人」は、喜びが無いので愚癡が出やすく、功徳が出にくいのです。
「惰性の人」も一見すると一応は、功徳が出る人と同じ実践行動をしているように見えますが、あたかもアイドリングだけしてギヤを入れない空ぶかしの車のようなもので、功徳はありません。
第三に、「不信の人」は疑いながら信心をしていますので、その自分の不信の一念の通りに、何も叶わないのです。

そこで、「決めて祈って動くと変わる」と言われるように、頑張ることより変わることが大事、本当に決意しているのかどうかが大事なのです。
決意の一念に立つことが意外とできないのです。
「いつまでに何をどうするか」を具体的にして「変わろう!」と決めるのが難しいのは、本当に決めたのであれば真剣に戦わないといけないと解っているからです。

自己の弱さとの熾烈な戦いを開始し、その戦いを持続しないと、本当に決意したことにならないからです。

逆に言えば、そういう本当の決意ができれば、あとは祈って動いて変わることが、必ずできるのです。
そこがとにかく頑張ればいいとの「行動の因果」ではなく、まず変わろう変えようとの一念を決めることを重視する「一念の因果」の宗教が、大聖人の仏法なのです。

目に見える行動だけではいろいろと手が抜けます。
人の目は誤魔化すことができます。
しかし、心がどうかを見ていけば、誤魔化しはききません。
自分の(己心の仏の)目を欺くことはできないのです。

 

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コメント

  1. イプシロン より:

    レオさん、こんにちわ。
    お久しぶりです。

    記事でご紹介されている河合さんの本は、私もどちらも読みましたよ。男子部時代の原点の本だったりします。
    二回くらいずつ読んだり、悩んだときに開いたりした、随分お世話になった本です。
    決意、確かに大切ですね。
    ですが、最近発見したのは、自分のへの最大の激励は何か? という自問自答からの答えでした。
    そのアンサーは、「自分への最大の激励とは、行動することである」でした。
    結果はともかく、行動することで自分を励ます、そして出来たら、褒める。褒めちぎる(笑)
    朝夕の勤行・唱題は報恩=決意、感謝=賛嘆なので、あとは何かすればいいんだね、という単純な発想なんですけどね(笑)

    でも、これが出来るようになると、自然に思考思索地獄(決意しようと決意したり(笑)、決意の文言を考えて迷ってしまたり、祈りの優先順位とかで混乱したりすること)
    から抜けられるんじゃないかしら。なんて思うようになりました。
    もちろん、行動する根底に「何のため」という問いがないとだとは思うのですがね。
    ですがそこはもう、無心になって一生懸命になって無我夢中になって熱中時代になって唱題する(笑)
    そして隣家から題目の声がうるさい! と苦情がくる(笑)ようなことはいけませんが、
    そういうシンプルな感じでいいのじゃないかな、なんて思うようになりました。
    進歩したんだか、退化したんだか分かりませんけどね(笑)

  2. レオ より:

    イプシロンさん、お久し振りです。
    それほど以前にすでに読んでおられたのですね。
    先生の本やその行動を描いた本が中心で、その他の人までなかなか手が回らなかったのでした。

    最近は医学博士の川田洋一さんの本なども何冊か読みました。

    河合氏の指導は様々な局面での具体論から、深めていき1つの原理に至るというか肉薄するアプローチが特徴のようですね。
    陥りやすい落とし穴を指摘してくれ、それをどう回避するかを噛んで含めるように、アドバイスしてくれます。
    この方、もう70歳代半ばになられているようですね。

    昔、ある幹部に言われましたが、
    「余裕綽々【よゆうしゃくしゃく】ではいけないよ」
    と。
    今、戦わないで、いつ戦うの? との意味だったと思います。
    或いは、本当はすでに窮地に追い込まれているのに、目をつむって現実を見ないようにしている、先延ばしにしているごまかしの生き方を、指摘してくれたのかもしれません。

    「明日食べる米が無くなったり、癌になったりすれば、それこそ馬鹿でもなければ、真剣に戦って当然です」
    とも聞きました。
    余裕があるから、あれやこれやと余計なことで迷うのかな、と思います。

    大きな悩みが無いと戦えない、というのもある意味、境涯が低いのか、困ってなくても戦えるようになれれば、一人前なのかもしれませんね。

    信心とはこれだけやれば良いというのは無い、と言いますが、いくらやっても切りがない、ということにもなりえます。
    まだまだだ! こんなものでは足りな過ぎる!
    と馬車馬のように鞭打つような言葉しか聞かなくなれば、冷たい世界になってしまう。

    褒め称え、感謝する言葉と心が飛び交っていれば、鞭打たなくても自然とヤル気を引き出すものなのでしょうね。

    またイプシロンさんのブログへもお邪魔致します。