不可能を可能にする

2019年6月18日

不可能だから祈る。最初から可能なら祈る必要はないし、信仰も必要ないと言える。創価の信心には不可能を可能にする力がある。目的地まで橋が無くて行けないとしたら、必要な橋が架かるのだ。

悩める友を根底から救う折伏をやり切っていけば、必ず祈りは叶う。例え今は聞く耳を持たなくとも、相手の幸福を祈って、妙法の素晴らしさを一文一句でも語り、我が身で示していけば、自他共に福徳が命に刻まれていくのは間違いない。

「祈りとして叶わざるなし」と言われる創価の御本尊には、なぜ「不可能を可能にする」力があるのだろうか。なぜ不可能が可能になるのか、語ろうと思えばいろいろな角度から語ることもできよう。八万法蔵と呼ばれる膨大な教義も、このことを説き明かしているとも言える。

大事なのは実践して体験することである。理論的にあれやこれやとこねくり回すのではない、そんなものは像法時代の人師にでも任せておけばよいのである。自らが実践して、生命の上に生活の上にどういう現証・実証が出るかを、自分が実感するのが、一番よく解るのだ。そういう訳で『人間革命10巻』から、2つだけ指導を紹介する。

私どもは、立派な御本尊を戴いた。世間の人びとの常識では、とうてい不可能と思いこんでいることを可能にする力が、御本尊にはあるのです。ただあきらめて、不可能と思っている人は、妙法の力を知らない人たちです。すべてを可能にする人は、その妙法の力を引き出すことのできる人です。まず、強盛な祈りによって、不可能を可能とする実践が勇んで出てこなければなりません。

何なる世の乱れにも各各をば法華経十羅刹助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり
(p.1132)

ひどい乱世で、佐渡におられる大聖人は、弟子たちをどうしようにも守ることはできない。とても不可能なことです。しかし、大聖人様の御祈念は、しっぽりと濡れた木をこすってでも、ない火を出させてみせる、またカラカラに乾いている砂漠のような大地から水を迸【ほとばし】り出させてみせる。このように私は、強盛に祈っているのだとお認めになっている。

御本尊に対する祈りというものは、一大事のときには、このようなものでなければならぬとお示しになっているのです。
(引用、ここまで)

人それぞれに人生の途上には、人生を左右する一大事から、あるいはこれを達成しないと後がないという、一歩も引けぬ「まことの時」がある。その時こそ、徹底した祈りを根本に、かつてない広宣流布の戦い・行動を起こしていくのだ。その時、迷いの凡夫には見えないだけで、仏の眼から見れば、すでに不可能は可能となっているのだ。

 

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